三斗小屋番人

自己紹介

三斗小屋番人。
高祖父まで黒羽藩士でした。

那須岳の麓.jpg

高祖父が早世したためと言うより、下級藩士で士族に編入されなかったのだと思います。

ご一新を機に、栃木の農家となりました。
在所は那須御用邸の近く。
御召列車の停まる駅から御用邸までの道すがら、高久(たかく)小学校がありました。
今より御用邸の多かった戦前でも、駅~御用邸間、唯一の小学校です。


①三斗小屋番人父方家は、一応氏素性が知れていたこと。
②当時、祖父が高久小学校の学校世話人(PTA会長)をしていたこと。
③青年男子は出征し、他の大人は生活に追われ、子供しか人手がなかったこと。
④昭和天皇は子供好きで、農家の汚い小童をうろつかせても叡感斜めならず、だったこと。
…そんなこんなで戦前の昭和。
私の父、その兄、その従兄は、夏の御用邸の雑用を承ったのです。
小学校高学年の子供ですので、地元ならではの雑役です。

しかし、そんな聞き書きも、先帝先后のお人柄を偲ぶよすがになれば嬉しい。



先帝偲ぶ草②

「ゴム長姫」

那珂川で鮎を釣りたいとおっしゃるので、ご案内したことがあるそうです。

陛下を。絶好の穴場に。 

一般的に「天皇」「天皇陛下」とお呼びいたしますが、那須御用邸土着故老の場合、 「陛下」 とは昭和天皇のことです。 
「今の陛下」で、ようやく今上にたどり着きます。 
現在の皇太子ご一家のことは敬愛しておりましても、文仁親王に関しては記憶細胞抹消済みか。 
で、陛下が黒のゴム長靴お履きになり、鮎釣りされている図も嬉しいのですけれど、香淳皇后が、「花摘みをなさりたいそうである。案内せよ」 
早朝、朝露のびっしょりおりた林の叢にわけいり、香淳皇后は花を摘まれた。 
心労の多かった、この時期の両陛下。
鮎や野の花が、少しでもお慰めできたのであれば幸甚です。 
その時、香淳皇后は黒のゴム長靴を履いておられた。
その話を聞いた時、本物のお姫様は強い!と思いましたね。
もったいつけて気取りまくらずとも、お姫様以外の存在になったことがないので、黒のゴム長でも全然平気。 
座した時の香淳皇后は、身内の知る限り、常に手を動かしておられたそうです。編み物や縫い物 
お駄賃は紅白の菊の落雁です。
もらって帰って小さく砕いて、一家全員でいただくのです。


浜辺の天皇皇后両陛下.jpg

先帝偲ぶ草③

「気をつけ!最敬礼!直れ!」

戦前、昭和天皇巡幸においては、沿道に老若男女が列をなし、3㍍おきに立つ警官、「気をつけ!最敬礼!直れ!」と号令をかけたそうです。

もちろん、陛下の龍顔を仰ぐことなどできません。 しかるに…那須御用邸にてのご静養に向かう陛下を迎える高久小学校の子供達。

(※当時の身内は、坊主頭、絣の着物に三尺帯を巻き付け、下駄履きである。)
「子供は最敬礼しなくてよい」陛下はおっしゃる。

「不敬であります!」周囲は抗う。

たぶん当時の那須の警察署長あたり。

「子供達の顔が見たい」

「それでも、不敬であります!」

…折衷案が出されました。先導の車が見えたと同時に「気をつけ」通りかかると「最敬礼」体を深く折り曲げた瞬間!光の速さで体をまっすぐにする。

「直れ」です。

陛下のお車が通る時には、子供らは皆、

「じー」

好奇心の塊となって、陛下を凝視しておりました。もちろん陛下も、田舎の小汚い子供らを楽しそうに眺めておられたそうな。

今から考えると、下らない折衷案まで出さなければ道を行くことすらできない。不自由です。

それにしても何故そこまで、子供に最敬礼させるなとおっしゃったのか?

大人に強制され訳もわからず最敬礼する子供の姿、ご覧になりたくなかったのかななんて想像してます。



行軍.jpg

御召列車到着駅から那須御用邸までの道すがらにあるのは、田代尋常小学校でした。高久ではありません。
訂正いたします。申し訳ありません。
爺「通り道にあるのは、田代尋常小学校だ」
私「高久じゃないの」
爺「田代なら御用邸へ歩いてゆける」
私「高久は?」
爺「歩いてゆく。倍かかるが」
歩く以外の移動手段はないんかい…。
で、先帝が、子供達の顔が見たいから最敬礼させるな、と仰せになったのは、田代尋常小学校でございました。

先帝偲ぶ草④

「自然のままがよい」

これは戦前の話ではなく、私が昭和の終わり頃に従兄から聞いた話です。

「御用邸の敷地の自然林と言えば聞こえはいいけれど、まあ山ん中そのままなんだよ。せめてコサ払い(下枝打ち)でもしましょうかって言っても、陛下は、 

『自然のままがいい。そのままにしておいて欲しい』 
って言うんだな、これが。山と里の区別のつかなくなった熊が出てきて困るって言っても、 
『追い払うだけで、殺さないでくれ。自然に任せてくれ』 
陛下はきかないんだもんな」 
陛下は寡黙な方だったそうです。
何をお考えになって人も入れない原生林のままおいたか、今となっては推測するよりありません。 
人間は自然の一部であり、それ以上でもそれ以下でもないこと。 
熊は自然の一部であり、それ以上でもそれ以下でもないこと。 
木々も自然の一部であり、それ以上でもそれ以下でもないこと。 
その矩を忘れ越えた時に歪む、と、私は勝手に考えさせていただいております。


那須の山道.jpg

先帝 偲ぶ草⑤

東宮火病

平成の東宮ではなく昭和の東宮。つまり、今上。

戦前、那須御用邸にご一家で滞在されている時、何がお気に召さなかったのか、継宮「東京に帰る」。 

いかに生まれながらの皇太子と言えど、天皇陛下のご静養の期間をどうこうするわけにはゆきません。 
そうしたら、 
「一人で歩いて帰る」 
御用邸から幹線道路に出る砂利道を、一人でずんずん歩き出してしまったのですよ。
追いかけて、なだめすかして「お戻りいただく」のに、お付きの方々は大変な思いをしたとか。 
当時は小学生だった今上。
いったい、何がそんなに気にいらなかった?久しぶりのご一家にての御用邸、おもう様にお小言でももらったのか 
今上と那須御用邸。 
後年、お姉様の東久邇成子さんが若くして亡くなり、悲しみに浸る那須の昭和天皇香淳皇后のもとに今上と美智子妃が押しかけ「どうでもよいこと」を散々訴えた入江侍従が書き残しております。 
また、今上は「那須は嫌いだ」と仰せで。 
那須の空気は、今上の闘争本能を呼び覚ますのでしょうか? 
少なくとも、かの地においては「自分を律して」は、おられませんなあ


昭和天皇ご一家01.jpg

「きのこ」

昭和天皇の那須御用邸ご静養は、夏から秋にかけてでした。

秋、山に茸が出る頃、茸狩りをなさりたいとのことで。 

言い出しっぺは今となってはわからないのですが、 
「ご一家のゆかれるところに、先回りして茸を植えておこう」 
警察署長か誰かでしょうか。
で、子供達の出番です。
少年だった私の身内どもが採ってきた茸を、陛下がお通りになる道すがらに植えておく。 
でも、あの植物学者の陛下にばれないと思います?
もう、しっかりバレバレです。 
「このようなことは していただかなくとも けっこうです」 
こんな口調であられたそうな。 
「茸を探して歩くことが 楽しいのです。どんなところに生えているのか 考えることが 楽しいのです」 
そうおっしゃった。 
今の皇太子様。 
似たことをおおせでしたね。敬宮様の教育方針について。 
結果も大切だが、そこに至るまでの努力や過程から、学んで欲しい。 
こんな意味合いのことをおっしゃっておられましたね。 
よかった。


天皇皇后両陛下06.jpg

「かぼちゃ」

伯父と父がかぼちゃの種を蒔きました。芽が出て膨らんで花が咲いて、立派なかぼちゃ。

(※田舎だし戦争中だし、夏休みだからって親にどこかに連れて行ってもらうなど、あり得ないのです。親の手伝いと宿題の他は、いつもの遊びと、かぼちゃやスイカでも作って楽しむくらい。
竹で棚をこしらえ工夫して育てたら、品評会で賞を取るかぼちゃができた。 
「そうだ。献上しよう」 
これはもう、あの辺の住民の脳に刷り込まれています。一番よいものは陛下に献上する。 
で、何人かで大八車にかぼちゃ積んで、御用邸まで引いていった。御門前で押し問答があったらしいが、なんと陛下が騒ぎを聞いてお出ましになった。そして、身内の(土民の子供)の話を聞いてくださった。 
かぼちゃを作った。こんな大きくて立派なのができた。陛下に献上しようと持ってきた。 
当時小学生の父親には、陛下がと言うより、大人の男が自分達の話をゆっくり聞いてくれたことが衝撃だったようです。親より好きだと思ったそうですから。 
(祖父母は忙しかった。上の伯父は出征してたし。
で、かぼちゃは御用邸に引き取られました。当時、千代田では米麦半々のゴハンだったそうです。 
陛下のお胸のうちは 
後年、 
「身はいかに なるともいくさ とどめけり ただたふれゆく 民をおもひて」 
御製を知り、私は下世話な言葉で思考いたしました。 
いくら田舎でも、あまるほどの食糧事情ではない中、苦労して作ったかぼちゃを自分らは食べず献上されたら、しかも子供に。 
効くわ。
三斗小屋番人 2013/03/23(Sat)10:19:47

少年だった私の身内どもが採ってきた茸を、陛下がお通りになる道すがらに植えておく。 
でも、あの植物学者の陛下にばれないと思います?
もう、しっかりバレバレです。 
「このようなことは していただかなくとも けっこうです」 
こんな口調であられたそうな。 
「茸を探して歩くことが 楽しいのです。どんなところに生えているのか 考えることが 楽しいのです」 
そうおっしゃった。 
今の皇太子様。 
似たことをおおせでしたね。敬宮様の教育方針について。 
結果も大切だが、そこに至るまでの努力や過程から、学んで欲しい。 
こんな意味合いのことをおっしゃっておられましたね。 
よかった。


img_771539_30311458_0.jpg

「こぼれ話」

那須の御用邸には陛下の警護や連絡のため、さまざまな軍人さんが出入りをしていたそうです。

那須の御用邸には陛下の警護や連絡のため、さまざまな軍人さんが出入りをしていたそうです。 

のんびりしたかの地の雰囲気のせいか、戦争が激化していないうちは子供相手に無駄話をしてくださる将校さんも多く、 
「このあいだは三笠宮にお目にかかったよ。馬鹿だったらどうしようかと思ってたが、頭のよい方で助かった。つまり大正天皇のお子様方は皆様、頭がよいんだなあ。 
どうゆうわけか」 
皇族は馬鹿で当たり前と言わんばかり。現人神って、信じていた国民、実は少なかったと思います。 
貞明皇后は我が子4人、末の三笠宮に至るまで成績優秀だったため大変喜ばれたとか。 
昭和天皇と弟宮方は、昭和天皇のお子様方より、ご両親の手元におられた時間が長いようです。また、いかに貞明皇后が聡明であられても、大正天皇に知的障碍があれば4人のお子様全員聡明は、どうかな? 
私が「大正天皇知的障碍説」に疑問を持ったきっかけです。 
そして世間に流れる「香淳皇后鬼姑説」に首をかしげたのは、昔々のテレビに香淳皇后のご学友が出演し、話しているのを視聴した時でした。 
(そんなお優しい方が美智子妃を虐めるのかなあ…) 
何十年と言う単位で考えると、真実は必ず姿を見せるものですね。
三斗小屋番人  2013/03/23(Sat)18:39:41


三笠宮_01.jpg

先帝 偲ぶ草⑨

「崩御」

「昭和天皇が崩御した時って、どんな感じだった?」

崩御.jpg「昭和天皇が崩御した時って、どんな感じだった?」 

ネットで質問している人がいました。現在30才の人でも、ほとんど記憶に残っていないかもしれないのですね。 
私は、もう社会人でした。昭和天皇が最後の入院をなさった昭和63年秋から平成の始まりまでの、以下記憶です。 
とても大きな活字で「天皇陛下吐血」と新聞一面に出てから、私は不思議な不安感に駈られました。少しあとで林真理子が「昭和がずっと続くと思っていた」と新聞に書きました。私もそう思っていたのです。起こらないはずのことが起こる、どうしよう。 
陛下の病状は24時間体制で発表されました。当時購読していた朝日新聞の4コマ漫画「フジ三太郎」に、フジ家のおばあちゃんが真夜中ぱっと起きてテレビをつけ、陛下の病状を確認するそんな内容のものがありました。私も時々夜中に目覚め、テレビをつけました。 
陛下は最後まで米の作柄を気にしておられました。私達がお腹いっぱいご飯を食べられるか、最後まで心配しておられました。意識は驚くほど明瞭に保たれ、テレビで大相撲をご覧になっておられました。侍従がテレビの前を遮って御用をすると「見え
ない」とおっしゃいました。 
崩御されての大喪の礼は、かえって知らないのです。出勤していて、テレビ中継を視聴できなかったから。 
大喪の礼の会場は新宿御苑だったと記憶してます。
三斗小屋番人 2013/03/24(Sun)10:29:00 


先帝 偲ぶ草⑩

大喪の礼の記憶はあまり残っていないのに、八瀬の童子のことは覚えているのですよ。

後醍醐天皇のお供をした縁から、京都八瀬の若者達が世々の天皇のご遺骸の輿を担ぐ決まり。
しかし、八瀬の住民も大半サラリーマンとなり輿は自動車となり、大正天皇の輿を担いだ老いた童子達が最後の供奉を宮内庁に許された。 

何故か覚えています。
数人の老人が陛下のご遺骸の乗った車に寄り添い、歩いている光景。
テレビを視ていて、どうしてかわからないけれど涙が流れました。 
勤めが休みの日、友達とお悔やみの記帳をしに皇居までゆきました。 
帰り道、ゆっくり歩いているうちに、冬の陽は落ちて寒かったです。ちょうど有楽町辺り、私はふと空を見上げ驚きました。 
暗かった。 
夜空が真っ暗。 
バブル景気のさなかの、銀座のネオンサインがすっかり消えていたのです。国民は諒闇に入っていたので当たり前。しかし、私は改めて「ああ暗い」と思いました。 
私の平成の始まりは「ああ暗い」でした。なんであんな予感が当たるんだか。
三斗小屋番人 2013/03/24(Sun)12:36:54
 


先帝 偲ぶ草⑪

「殉死」

昭和天皇に殉死した方は、確か二人、でした。

1337398_389df21d7473f031d2411b480b48d375.jpgおひと方は陛下と同い年、もうひと方も同じ世代だったと記憶してます。 

新聞によればお二方とも、縊死です。
きちんとした遺書があり、 
「原稿用紙に万年筆で自らの経歴が記され、最後に『陛下はおひとりではご不自由だろうから、供をする』とあった」 
今こうして打っていても、せつない気持ちがわき上がって、涙がこぼれます。 
自殺。自殺はよくないことです。 
殉死。殉死も時代錯誤な死です。 
どちらも違います。首をくくったお二方は、陛下のお供をしたのです。 
それだけのことです。 
私は新聞記事を読んでしばらくの間、お二人が陛下に追いついたか、お供できたか、そんなことを考えていました。 
現在のマスコミは、善悪正邪よりも権力のある側にすりより、事実をねじ曲げる報道など日常茶飯事です。社会の木鐸たる気概を持つジャーナリストがどれほどおりましょう。 
「昭和天皇は戦前、現人神の独裁者として君臨し、崩御の時も市民は平静であった。今上の穏やかなお人柄とは、こう言っては何だが、木枯らしと春風ほどの違いがある」 
こーんな捏造記事を書きかねません。私の聞き書きなぞ拙いものですが、とにかく残しておきたかったのです。 
読んでくださった方、ありがとうございました。
三斗小屋番人 2013/03/24(Sun)22:45:13


♠ 先帝 偲ぶ草番外

「皇居勤労奉仕隊」

皇居勤労奉仕隊は、宮城県の青年男女有志60名による、皇居の被災瓦礫片付けであり、その第1回は昭和20年12月8日でした。

昭和天皇は彼らの志を喜ばれ、一同に会いたいとの御希望。その時のお言葉。 

「遠いところから来てくれて、まことにありがとう。郷里の農作の具合は、どんなか、地下足袋は満足に手に入るか、肥料の配給はどうか、何が一番不足か」 
この時、香淳皇后はいらっしゃいませんでした。 
南方からの引き揚げ者の防寒の為、焼け残った皇居中の毛糸と布と綿をかきあつめ、セーターと綿入れを作っておられたからです。
2013/04/01(Mon)