皇太子妃雅子様の家系

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古賀喜三郎・海軍少佐

1845年- 1914年12月
日本の海軍軍人、海軍少佐。
海城学園の創設者。



家族
娘:米子(佐賀県、海軍中将江頭安太郎に嫁す)
孫:江頭豊(チッソ社長・海城学園名誉学園長)、古賀博(海城学園前理事長)
曾孫:江藤淳(文芸評論家・海城学園元理事)・古賀喜博(海城学園現理事長)
玄孫:皇太子妃雅子



略歴

肥前国佐賀郡北川副村古賀(現佐賀県)に平尾吉左衛門、よしの次男として生まれる。
古賀家の養子となる。
佐賀藩の砲隊司令として奥羽追討の師に加わる。
功績が認められ有栖川大総督宮から感状を下賜された。

1891年11月、私財を投じて海軍予備校、後の海城学園を創設。
理事長兼校長として、数多くの将校を育てた。


海城中学校・高等学校

東京都新宿区大久保にある私立の中高一貫制男子校。

 1891年(明治24年)、佐賀藩出身の古賀喜三郎により、海軍予備校として創立された。

 戦前の海兵(海軍兵学校)は、「一に海兵(海軍兵学校)、二に陸士(陸軍士官学校)、三・四がなくて、五に東大(東京大学)」と言われ、まさにエリート中のエリートであった。
 そのエリート教育を行うため、商議員には渋沢栄一や高田早苗ら、また議定員には西郷従道や伊東祐亨ら朝野の名士を集め、講師にも海軍兵学校の有力な教官を揃え、万全の体制を敷いた。
全盛期には、海軍兵学校の全入学者の半数近くを占めるほどに発展し、「海軍兵学校に進むには海軍予備校(海城)を経なければならない」とまで言われた。

1904年(明治37年)の日露戦争には、多くの卒業生たちが海軍士官として、旅順港封鎖に、日本海海戦にと活躍した。
 終戦直後、GHQにより閉校命令が出て学校存続の危機に陥ったが、学制改革により、1947年(昭和22年)に、新制海城中学校、1948年(昭和23年)に、新制海城高等学校として発足し、現在に至る。

建学の精神

国家・社会に有為な人材を育成する

教育理念

「新しい紳士」を育成する

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