皇太子妃雅子様の家系
海軍中将・江頭安太郎
江頭 安太郎(えがしら やすたろう、元治2年2月12日(1865年3月9日) - 大正2年(1913年)1月23日)は日本の海軍軍人。海軍中将従四位勲二等功三級。皇太子徳仁親王妃雅子は曾孫にあたる。
海軍兵学校12期首席、海軍大学校5期優等。海軍省人事局長、海軍省軍務局長等の要職を歴任した。
年譜 [編集]
1886年(明治19年)12月7日 - 海軍兵学校卒業(12期)。海軍少尉候補生。
1888年(明治21年)1月13日 - 任 海軍少尉。
1891年(明治24年)12月14日 - 任 海軍大尉・「比叡」分隊長
1892年(明治25年)5月30日 - 海兵水雷術教官兼監事
12月21日 – 海軍大学校甲号学生(5期)
1893年(明治26年)12月19日 - 海軍大学校卒業・水雷術練習所学生
1894年(明治27年)6月6日 - 「住ノ江丸乗組」(運送船監督)
7月23日 - 「品川丸」乗組(工作船監督)
12月5日 - 「金剛」航海長
1895年(明治28年)3月9日 - 海軍省軍務局第一課課僚
1897年(明治30年)4月1日 - 軍務局軍事課課僚
6月23日 - 防護巡洋艦「高砂」回航委員(イギリス出張)
12月1日 - 任 海軍少佐
12月10日 - 「高砂」水雷長
1898年(明治31年)9月1日 - 海軍省大臣官房人事課課僚
10月3日 - 兼軍務局軍事課課僚
1899年(明治32年)3月22日 - 海大選科学生
9月29日 - 任 海軍中佐
1900年(明治33年)6月14日 - 軍務局課員兼海大教官
1901年(明治34年)10月15日 - 装甲巡洋艦「出雲」副長
1902年(明治35年)6月5日 - 装甲巡洋艦「八雲」副長
1903年(明治36年)4月14日 - 待命
9月26日 - 任 海軍大佐・海軍教育本部第一部長
1904年(明治37年)1月4日 – 兼軍令部副官
1月21日 - 兼軍令部参謀(第三班長)
1905年(明治38年)8月5日 - 免教育本部第一部長
12月20日 – 免軍令部副官・任軍令部参謀(第四班長)
1907年(明治40年)12月18日 - 巡洋戦艦「生駒」艦長・呉工廠艤装委員
1908年(明治41年)8月28日 -任 海軍少将・旅順鎮守府参謀長
1909年(明治42年)12月1日 - 佐世保鎮守府参謀長
1911年(明治44年)3月11日 - 人事局長
1912年(明治45年)4月20日 - 軍務局長
1913年(大正2年)1月7日 - 任 海軍中将
1月10日 - 待命
親族
父 嘉蔵(佐賀中学校(現佐賀西高校)の小使)
母 キノ
兄 範貞(裁判所勤務)
妻 米子(佐賀藩士、海軍少佐古賀喜三郎の娘)
長女 英子(古賀七三郎に嫁す)
長男 隆
次男 博(古賀家養子、海城学園長)
三男 豊(チッソ社長・海城学園名誉学園長)
山屋他人の娘・寿々子と江頭豊の結婚式の媒酌人である百武三郎は昭和天皇の侍従長
次女 淑
孫 久子(東京大学名誉教授江口朴郎夫人)
孫 江藤淳(文学評論家・海城学園元理事)・古賀喜博(海城学園理事長)
孫 優美子(小和田恒夫人、日本ユニセフ協会評議員)
曾孫 皇太子妃雅子
曾孫 節子(翻訳家、文化人類学者)