光琳

2013-04-01

資料本 昭和天皇・香淳皇后

光琳.jpeg
左  「素顔の昭和天皇」より 撮影・文 吉岡専造

5月14日 

皇后さまの訪問着は銀鼠という色か、光琳のカキツバタの屏風絵のような図柄だ。
(中略)
風が出てきて、皇后さまの和服の裾が乱れて困った。

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女王陛下の対日戦略

2013-04-01

資料本 昭和天皇・香淳皇后

ジョージⅤ.jpg
昭和天皇にとって、皇太子時代の欧州訪問のご旅行は、プリンスからキングへの道を歩まれる「帝王学開眼」の第一歩であった。
父君、大正天皇をはじめ、元老西園寺公望公、原敬首相の熱意によって、世界に目を向け、見聞を広めるためのご旅行が実現した。
大正10年3月、お召艦「香取」で横須賀をご出発、大正天皇がご静養になっておられた葉山御用邸沖を通ってまず香港へ。
ポーツマス軍港外に碇泊する「香取」までお出迎えいただいたエドワード皇太子とご一緒に鉄路でロンドンへ。
英国王ジョージ5世陛下(エリザベス女王のお祖父さん)は、昭和天皇(当時皇太子殿下)をお孫さんのようにかわいがられ、バッキンガム宮殿にご案内された。
ロンドンでは王室の賓客として3日間、政府の賓客として5日間、あわせて8日間の国賓としてのご滞在であった。

     (サンケイ出版 皇室の昭和史)

昭和46年9月、敵となった大戦を挟んで50年後、香淳皇后を伴われて、ヨーロッパご訪問。
ロンドン、ビクトリア駅にはエリザベス女王夫妻がお出迎え。
近衛騎兵隊の護衛で白馬の6頭立て馬車でビクトリア駅からバッキンガム宮殿までパレード。

今回、エリザベス女王即位60周年のお祝いに、皇太子殿下がご出席になれば、お孫さん同士。
ご長命の女王陛下には3代続いた日英関係の証としてとても良いお祝いになったと思うのだが・・・。

政府は「私は貴女の戴冠式に出席したんですよー、60執念(もとい周年)にも出た人なんていないでしょ、私だけですよ、すごいでしょうニコニコ」の方を選んだのね。


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追加(只今、Rosa wichuraiana さんからメール)

記事「女王陛下の対日戦略」ですが、明仁・美智子コンビは英国からのご招待のようです。
検索したら、こんなのがありました(四国新聞)。
皇太子さまでなかったことは明仁さんのせいでも政府のせいでもないので、訂正した方がいいですよ。


敗戦国日本からやってきた19歳の青年皇太子を、老宰相チャーチルは手厚く遇した。歓迎レセプションでは、慣例を破って女王への乾杯の前に皇太子に杯を捧げ、長い歴史に培われた日本の優れた文化と芸術をたたえた。1953(昭和28)年4月のことである。

第二次大戦の終結から8年。戦争で疲弊した英国はまだ物資の配給制が残り、敵国だった日本への嫌悪が強かった。

チャーチルは接遇の陣頭指揮を執り、対日感情を和らげるのに腐心したという。大の親日家だった母ジェニーの影響があったと、「チャーチルが愛した日本」(関栄次著)に書いてある。

随員だった吉川重国氏(故人)の著作「戴冠紀行」にも「あたかも孫を扱うようにほんとうに打ちとけて」と、チャーチルへの感謝が記されている。この日を境にメディアの反日キャンペーンは収まり、6月2日、皇太子はエリザベス2世の戴冠式に参列、天皇の名代として大役を果たした。

初の海外歴訪で親愛に満ちたもてなしを受けた記憶が皇太子の胸に深く刻まれたことは想像にかたくない。きょう、皇后とともに向かわれる英国は8回目の訪問。心臓手術から日の浅い今回も「ぜひ」と希望されたという。

59年前の戴冠式に参列し、今回の祝賀行事にも招待されているのは陛下とベルギーのアルベール国王だけ。86歳の女王と78歳の陛下。お二人だけに通じる滋味深い会話がきっと交わされるだろう。よい旅になることを心からお祈りする。(L)

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浩宮様、初等科の詩と作文

2013-04-01

資料本 昭和天皇・香淳皇后

浩宮詩.jpeg
初等科2年の「たんきょりきょうそう」と言う詩。
いかにも少年らしい短く強い詩だ。
文章でも、非常にさっぱりとした感じを受けるので、こういう文学関係は、すぐに歌詠み巧者である美智子皇后のお血筋だ、となるが、美智子皇后の文章は、もうちょっとねばっとくどい味がする。
歌でいうと「地球の春」とか「歳時記に見ず」とか、ちょっと普通の人では使わない言葉が使われていて、それはそれで、非凡な才能なのだろうけれども、これは勉強した大人が創り出したとも言える言葉の使い方である場合もあって、浩宮様の感性とはちょっと種類が違う。

少年が日常の中で見出した普通のものが持つ美、あるいは平凡な中に潜んでいた美、それらを意識なく取り出して言葉に出来るそういう感性は、母親のものとはちょっと違う、と常々思っていたので、雅子さまを叩くにっくき松崎であるが、物書きとして美智子賛美の範疇に入らないものを、鋭く感じたのかもしれない、と思ったりする。
ある意味、文章に対する感覚は鋭敏である証拠かもw

しかし、昭和天皇似とは驚いた。

昭和58年発行の松崎敏弥著「皇太子・美智子さまのご教育」という本の一節である。

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全然構わないで一生懸命の方々

2013-04-01

資料本 昭和天皇・香淳皇后

構わない.jpg
左斜め15度から撮りなさいよ、という指令は出ていない模様。

お顔も見えないし、長靴履いて、でもお人柄と仲の良さがあふれでています。 ページトップへ

乳母は夜だけ

2013-04-01

資料本 昭和天皇・香淳皇后

乳母は夜だけ.jpg
やんわりと「美智子妃age香淳様sage」をたしなめられた昭和天皇。
やーーーぱり、この手の捏造報道って多かったんだ。
写真雑誌のこんな小さな囲み記事で言い訳したりして・・・バカ毎日。
お詫びの全面広告でも出せばいいのに。

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きれいなお嫁さま

2013-04-01

資料本 昭和天皇・香淳皇后

きれいなお嫁様.jpg
昭和34年6月、昭和天皇・香淳皇后はおしのびで東久邇家を訪れた。
娘の嫁ぎ先を訪れて孫と一緒にすごす、ということは、天皇家にとっては、幕末の孝明天皇以来のことであったらしい。
最初に訪れたのは義宮と清宮、つづいて新婚の皇太子ご夫妻(今の両陛下)、そして最後には天皇・皇后両陛下。
昭和天皇のお嬉しそうなお顔が見える。

驚いたのは、美智子さんの手を引っ張っている、照宮さまのお嬢さん、優子ちゃん。
よっぽど嬉しかったのか、靴下のまま飛び出して、美智子さんを迎えに出たようだ。
何と天真爛漫で、優しいお子さんなんでしょう!
母親の照宮様の情愛深さがよくわかるではありませんか。

たぶん、皇太子ご夫妻のご成婚はテレビで見たでしょう。
大人の複雑な目論見というのは、子どもだからわからない、ということもあるかもしれないけれども、少なくとも子どもというのは、大人が思うよりいろいろ察しているもの。
それからいくと、美智子さんはマスコミがいろいろ書くほどには、つらい立場でもなかったんではないかな?と思う。
遠慮がちに歩いて来る美智子さんを「早く早く、いらっしゃいよ」と子どもが飛び出して迎えるほど、東久邇家では皆さん、美智子さんを待っておられたのでしょう。

美智子さんも素直に嬉しそう。

この日から半年後、照宮様は病床に伏された。
降嫁した娘を見舞うのにも簡単にはいかない天皇皇后両陛下のために、宮内庁病院へ転院、照宮さまの枕元に飾る薔薇をお切りになるのが、香淳さまの毎朝の日課だったとか。
しかし、末期がんでその半年後、お小さい5人のお子様をおいて、逝かれた。
35歳のお若さで。

天皇ご一家の一人として受け入れられたこの日の記憶を、美智子さんはどこへやっちゃったのかしらね。

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香淳様の絵 生きてますね♪

2013-04-01

資料本 昭和天皇・香淳皇后

くるまえび.jpg
お題「くるまえび」

お皿から1匹飛び出しています。
よく跳ねますよね、くるまえび。
香淳様の描かれる生き物の目は、可愛いです。

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愛しの照宮内親王 1

2011/07/25 (Mon)

皇室の周辺を書いた藤島泰輔

孝宮様1.jpg

前に書いたように、明仁皇太子のご学友で、皇室の周辺を書いた人が二人いる。
一人は故人だが、作家藤島泰輔。
もう一人は美智子妃賛美に生涯を捧げ、この頃は「男子をあげられ、皇室を守った」キコ妃に賛美の目をシフトしている、ご存知橋本明である。

橋本明によると、藤島は明仁親王に疎まれ、距離をおくことになったと言うのだが、私はあんまり信用していない。
この橋本というおっさんは、近衛忠輝氏が「橋本にだまされた」と言ったことがあるそうだし、藤島が鬼籍に入ってから出した本で(すぐ前に出ている「美智子 さまの恋文」)ある事件がマスコミに流れたことを、藤島のせいであるかのような書き方をしたり、詳細は書かずあからさまに藤島を非難しているからである (文句があるならすぐに書けばいいのに)。

藤島はwikiには「明仁皇太子と距離をおいた」と書いてあるが、橋本は彼のことを「明仁皇太子に疎まれ」と書いている。
この照宮さまのことは藤島の「上流夫人」という本に出てくる。
三島が藤島のデビュー作に序文を寄せたくらいだから、橋本の文章よりかなり上等であると思う。
それより何より、橋本のように、自分の気に入ったものにだけ賛美するというのでなく、敗戦をさかいに、ガラリと変わってしまった日本と、それに ひきずられるようにして、無理に変えられようとしているある社会、それに対する愛惜をどうしようもなく捨てられないでいる彼の心が、「照宮様」という「上 等な人」を亡くしてしまった悲しみと共に、染みてくる一章である。

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「美智子さまの恋文」に頭の中を引っかき回されて、何か「懐かしい日本」を感じたくなったので、アップしました。

言わでもがなですが…「心が洗われます」

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愛しの照宮内親王 2

2011/07/25 (Mon)

皇室の周辺を書いた藤島泰輔

愛しの照宮内親王2.jpg

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愛しの照宮内親王 3

2011/07/25 (Mon)

皇室の周辺を書いた藤島泰輔

愛しの照宮内親王3.jpg

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愛しの照宮内親王 4

2011/07/25 (Mon)

皇室の周辺を書いた藤島泰輔

愛しの照宮内親王4.jpg

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愛しの照宮内親王 5

2011/07/25 (Mon)

皇室の周辺を書いた藤島泰輔

愛しの照宮内親王5.jpg

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日本の上流社会

2011/07/11 (Mon)

皇室の周辺を書いた藤島泰輔

孝宮様1.jpg

藤島泰輔氏もまた橋本明と同じく明仁皇太子のご学友だった。
彼も皇室のことを多く書いているが、さすがに三島がデビュー作に序文を書いてくれただけあって、美智子さんしか見えない橋本と違い、学習院の中で、「ご学 友たち」との付き合いを通し、皇室、それを取り巻く人たちの考え方、そしてそこから見えてくる「上流社会」を冷静に観察している。

この本は昭和40年初版である。
美智子妃入内の経緯と、その後にもかなり取材していろいろ書いてあるのだが、どこにも「香淳様が美智子さんをいじめた」話は出てこない。
これは前にアップした「ノンフィクション天皇明仁」(昭和61年初版)にも出てこない。

姑にいじめられたけれども、辛抱してよく舅姑に仕え、亭主の仕事も手伝い、また後継ぎの男の子を(姑より)早くあげて、立派にお育てになり・・・ソースとして「入江日記」がもれなくついて・・・。

入江日記は、平成2年、朝日新聞より刊行された。
それに先立ち、平成になってすぐ、朝日新聞に抜粋が連載されたそうである(うーん、なんとなくそんな覚えがあるようなないような)。

入江氏は、昭和天皇・香淳皇后のお側に仕えた人ではあるが、革新派だった。
しかし、その淡々とした文章は、「ま、嫁姑なんてそんなもんじゃね?」という雰囲気だし、香淳様は、親としてやることはちゃんとやってるし、結局は折れているようだし、ま、肩すかしをくったようなである。

明仁皇太子は、なぜか評判が悪かった。
それを払拭させるために、明仁美智子の苦労話をつくりだしたのではないか。

なぜかそんな気がしてきた。

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「皇室のマナー」

2011/11/12 (Sat)

酒井美意子著「皇室のマナー」

皇室のマナー.jpg

皇后の夕方からの祝宴で、皇太子ご夫妻が9時10分に帰った、一応辞去の時刻は9時30分くらいだろうと見当をつけていたのに、20分も早く帰った、秋篠宮・黒田両夫妻は10時過ぎくらいまで、お話をしておられたのに!
20分も!早く帰った、早く帰った。
その上、皇后は「あちらとは途絶」と言っているそうな。
ちゃんと祝賀に来てくれてるのに「途絶」とはこれ如何に?

皇太子様は、昔から宴は、早くに帰ることにしておられるようだ。
遅くなってはお付きの方に悪いと思われているらしく、むしろお付きの方々が気の毒がって「私たちなら大丈夫です」と言葉を返すこともあると、いろいろなエピソードで言われている。

こういう方が、夕方6時から始まった自分の母親の祝宴を9時10分に辞去して、何がいけないのかね?
後でわかったことだけれども、もう天皇は疲れがたまって、具合が悪かったそうじゃないか。
当日の主役の美智子さんも朝から祝賀につぐ祝賀で、いくら喜寿だからと言っても、大概にしておいたほうがいいと、国民は思いますが、息子が20分早く帰ったことが、そんなに許せませんかね?

酒井美意子さんの「皇室のマナー」に照らしてみると、家族の集まりとはいっても、皇太子夫妻・秋篠宮夫妻・黒田夫妻の中で、格からいえば皇太子ご夫妻が主賓。

鳳凰文庫、酒井美意子著「皇室に学ぶマナー」には、
「主賓は他の方たちのためにも、辞去のタイミングを自らつくりださなければならない」とある。
弟と妹はその後2時間くらいくっちゃべっていたそうだから、自分の好きにしていたのであり、別に何の不都合もなさそうなのに、なぜ20分くらいのことでマスコミに垂れこんで叩くのか?

あ、そうか、酒井美意子氏の言う「皇室」は「昭和の皇室」であって、平成皇室にはそぐわないんですね。

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