などてすめろぎは人となりたまひし

2011/07/03 (Sun)

などてすめろぎは人となりたまひし

などてすめろぎは人となりたまひし.JPG

『英霊の聲』

「日本の敗れたるはよし
農地の改革せられたるはよし
社会主義的改革も行わるるがよし
わが祖国は敗れたれば
敗れたる負ひ目を悉く肩に荷うはよし
わが国民はよく負荷に耐え
試練をくぐりてなほ力あり
屈辱を嘗めしはよし
抗すべからざる要求を潔く受け容れしはよし
されど,ただ一つ,ただ一つ
いかなる強制,いかなる弾圧
いかなる死の脅迫ありとも
陛下は人間なりと仰せらるべからざりし
世のそしり,人の侮りを受けつつ
ただ陛下御一人,神として御身を保たせたまひ
そを架空,そをいつわりとはゆめ宣はず
(たとひみ心の裡深く,さなりと思すとも)
祭服に玉体を包み,夜昼おぼろげに
宮中賢所のなほ奥深く
皇祖皇宗のおんみたまの前にぬかづき
神のおんために死したる者らの霊を祭りてただ斎き,ただ祈りてましまさば
何ほどか尊かりしならん
などてすめろぎは人となりたまひし。
などてすめろぎは人となりたまひし。
などてすめろぎは人となりたまひし」

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悠ちゃん天皇は、かつて三島が願ったような天皇になられるのかな?
神社本庁が大喜びしそうな天皇だね。
「祭服に玉体を包み,夜昼おぼろげに、宮中賢所のなほ奥深く、皇祖皇宗のおんみたまの前にぬかづき、神のおんために死したる者らの霊を祭りてただ斎き,ただ祈りてましまさば、何ほどか尊かりしならん」

あれほど純粋だった三島も、次のすめろぎになられるお方、その御方のおはします「皇室」を、もう制度上残っているだけのもの、という見方をしている。
画像は学習院で今上陛下のご学友の一人だった藤島泰輔氏の文壇デビュー作「孤独の人」の一部である。
冒頭は英語のベントン女史が風邪で授業が出来ないので、通訳役の日本人女性恵子が、宿題を伝えに来たのだが、少年たちが騒がしいので、英語で伝えるところから始まる。
静かに聞くかと思った恵子だが、少年たちは遠慮無く罵声をあびせる。
「どうせ俺達はジャップだ」
「日本語で言え、日本語で」
そして主人公の千谷吉彦は「パン助!」と叫ぶ。
彼は中等科の時には「殿下にくっつきたがっていた」と同級生から見られていて、それで苛められていたのが、苛める連中からは、この一言で「よく言った」という評価を受けることになる。

吉彦は教官室に呼ばれる。
「君が特にひどいことを言ったそうじゃないか。どういうわけなのだ。中等科時代の君を知っている先生方はひどく驚いておられる。」学年主任の永田教授が聞 く。「あやまったりすると却って澤田さん(恵子)を刺激するから、先生が代わりにあやまっといた。外人教授の中でもベントンさんの関係は特に注意して貰わ ないと困る。この学校の先生というよりは宮内庁直属のような形なのだから。」
「だからイヤなんです」

この本の「序」を三島由紀夫が書いている。

「さうだ。今日、伝統といふ言葉は、ほとんど一種のスキャンダルに化した。伝統といふ用語のかげには、必 ず、あやしげな、暗い、まやかしものの感じがひそむようになった。しかし一方ではすでに、一見明快な、新鮮な「民主主義的な」、新しい伝統が形成されつつ ある。そしてそれも早くも半ば、あやしげなものとなりつつある。一体、伝統と流行が同義語であるやうな時代とは、どういふ時代であらう。
皇太子は、伝統の象徴であり、また流行の中心でもある。この『孤独の人』は、存在論的孤独の人なのではなく、ただ制度によって孤独なのであるが、孤独とい ふことの深く人間的な側面と、制度の非人間性とが、尖鋭な対照をなして、この少年を不幸にしてゐる。そして2つの側面は、互いに他を反映しつつ、他を強め てゐるのであるから、この少年の孤独をただ人間的に救済するといふ企ては、はじめから矛盾を含んでいる。(中略)
われわれのころと比べて、学習院の内情は、ひどく変わっている点もあり、ゐない点もある。先生いぢめの残酷で暴力的なこと、中等科から入ってきた学生に対 する排他的意識、かういふところは昔のままであるが、追ひつめられた貴族の必死の悲壮な特権意識は、戦前には見られなかった。(後略)どんな時代が来よう と、己を高く持するといふことは、気持ちのよいことである。」

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画像に上げた部分は、皇太子が「友達を増やしたい」と、学友の元貴族の「京極くん」に「言った」ので、京極くんが吉彦を誘いに来るところである。
京極くんは「彼は選ぶべき基準を持っていないんだ」と言うが、吉彦に別の友人の名を挙げられて、オレはあんなヤツ嫌いだという。
「だって殿下の友達だろ。貴様が嫌いだって言ったって」と吉彦が「普通の正論w」を述べると
「俺の眼と、彼の眼とは違いやしないよ。」と言うのだ。

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かつて美智子さんは「殿下のために温かい家庭を作って差し上げたい」と言われ、あの昭和天皇と香淳皇后の作られた家庭も、宮中の習わしの中で、不自由なこ ともあっただろうが、なかなかい「温かい家庭」であったと、私などは思うのだが、殿下はあの親にもご不満だったのか?と思ったものである。

しかし「京極くん」の価値判断が最終的には「殿下の結論」になる「友達選び」から、何か透けて見えてくるものがある。

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三島由紀夫自決の日の初等科 その1

2011/07/03(Sun)

「などてすめろぎは人となりたまひし」のレスポンス

「などてすめろぎは人となりたまひし」この言葉と、1970年の三島由紀夫の割腹自殺、そして、その日の風景は、独特な印象を持って、自分の中に残っていました。

ですので、できればこのコメントを記事にお願いいたします。
管理人様が話題とされていることとは、ずれてしまう部分もあるけど。

あの日、学習院初等科にいた自分は、学校にいる内に、市ヶ谷の自衛隊の総監室を三島由紀夫達が乗っ取り、演説をしだしたのを知っていたように覚えています。
切腹したという展開も知っていたかもしれません。

(何しろ、子どもであった時のことであり昔の事であるから、曖昧な部分もあり、事件を良く知ったのはその日の夕方かもしれません)

三島由紀夫氏のお子さん(確か二人)が、先生の指示で初等科を早退しました。
苗字は三島ではありません。それで、先生が何かを言ったのかも知れません。
子ども心に、猛然とそのお子さん達が気の毒だと思いました。

翌日や数日後に、新聞記事やらテレビやらで事件の様子を詳しく知り、初等科の同級生が、死んだ三島かその一派の人の首写真という物も持ってきて、こわごわ見た記憶があります。

確か、楯の会の写真を何かで見ていたので、三島由紀夫は文学者なのに、昔の軍隊みたいな事が好きな人だという事はなんとなく知っていました。

当時は社会争乱的な事件は、だいたい、皇室はいならいとか、自衛隊はいらないとか、アメリカ帝国主義反対とか言っている人達がやっていたのに、今回は、自衛隊に頑張れと言って、時代劇みたいに死んでしまった。その意味がわかりませんでした。

それから、自分と同じ学校の生徒(浩宮さま)の、お家やお爺さんについての事などで、別の生徒(三島由紀夫氏のお子さん)のお父さんが思い詰め、こともあろうに切腹自殺をした、という関係性が、どうにもよく判りませんでした。

親に聞いても「芸術家はとっぴな事をするから」というような感じだし、先生は、一部の先生が言葉を濁しながら「三島の気持ちもわかる」というような感傷的な事を言うのですが、その気持ちがどんなものなのか謎でした。

そんな疑問を持っていたので、十代の終わり頃、何かの雑誌に載った三島評で、「などてすめろぎは人となりたまひし」という三島の文章と、「特攻隊 達も亡くなったのだから、天皇陛下は、自決されなくても、退位して伊勢神宮の神官になるべきだった」というような、三島由紀夫の考え方の紹介を読んだとき に、「なるほど」と思う部分があり、「その方が、この戦後の責任の所在が何かといいかげんな風潮の世にはならなかったかもしれない」と感じたりもしまし た。

しかし、同時に、それなら三島由紀夫も「人間生活」を送るべきじゃなかったのではと思いました。つまり、学校に通い、心の痛みを感じるようなお子さん達をもうけるなんて、自決する者として勝手きわまりない。

このように、消化しきれていなかった、三島由紀夫の割腹自殺の日の印象について、また、昭和天皇の選択へのとらえ方について、最近、自分なりに少しばかり整理がつきましたので、この続きとして、次回書きたいです。

Re:三島由紀夫自決の日の初等科 その1

【2011/07/04 】管理人

>「などてすめろぎは人となりたまひし」この言葉と、
>1970年の三島由紀夫の割腹自殺、そして、その日の風景は、独特な印象を持って、
>自分の中に残っていました。
>
>ですので、できればこのコメントを記事にお願いいたします。
>管理人様が話題とされていることとは、ずれてしまう部分もあるけど。

うわぁ、そうなんですね!
まさに学習院は歴史の中にある。
私は、皇室が「伝統」ということを主張しているからには、この「学習院」は非常に重要なところだと思うのですね。
藤島泰輔氏の「孤独の人」を出したのも、そのためであります。
読めば今上陛下の思春期がどんなものだったかわかります。
人間は、この成長期に経験した場所に多かれ少なかれ影響されています。
今上陛下も思春期に、180度変化した社会情勢が、教育の場にも大きな変化をもたらしており、その混乱は少なからず影響していると思うのです。
影響は大きかったかもしれない、小さかったかもしれない。
しかし、近代日本が先進国と肩を並べるために「教育」というものに最重要ポイントをおいていたからこそ、日本のエリート教育の任を託された学校で あり、そこから巣立たれた皆様の「人間形成」に大きく関与していることを考えれば、この不断の影響をあっさりと捨て去るということは出来ないと思うので す。
まして皇族においてをや。

これは学力のような極めて実用的なもののことではないですよ。
三島も「孤独の人」で言っているように「どんな時代が来ようと、己を高く持する」というように、普遍的な人間としての在り方の問題だと思うのですよね。

匿名様やルビー様に先を越されてしまいましたが、私は現皇太子様の史学科の安田研究室の論文集のテーマを見まして、以来、「帝王学を授ける」のは、実は「学習院」ではないかと思っているのです。

たぶんルビー様のお話を聞けば、新たにその思いを強くすると思います。
どうぞよろしくお願い致します。

ルビー様の一連のコメントは、「貴重資料」のカテゴリーに入れさせていただきますね。

ReRe:三島由紀夫自決の日の初等科 その1

ルビー様 2011/07/06(Wed) 

>私は、皇室が「伝統」ということを主張しているからには、
>この「学習院」は非常に重要なところだと思うのですね。
>藤島泰輔氏の「孤独の人」を出したのも、そのためであります。
>読めば今上陛下の思春期がどんなものだったかわかります。

「孤独の人」ぜひ読みたいと思います。遅くなりましたが「孤独の人」のご紹介ありがとうございます。今は中古本を探す感じですね。

なんだか大それた宣言をしてしまって、続きを今日書こうと思い暑さでダメでした。明日たぶん頑張ります。いずれにしろ、大した事ない文です。(^^;;;

>匿名様やルビー様に先を越されてしまいましたが、私は現皇太子様の史学科の
>安田研究室の論文集のテーマを見まして、以来、「帝王学を授ける」のは、
>実は「学習院」ではないかと思っているのです。

わっすごい。
管理人様がこの「孤独の人」の記事の続きを考えられていたら、私なんぞにかまわず書き続けて下さいませ。

>人間は、この成長期に経験した場所に多かれ少なかれ影響されています。
>今上陛下も思春期に、180度変化した社会情勢が、教育の場にも大きな変化を
>もたらしており、その混乱は少なからず影響していると思うのです。

敗戦と戦後は、調度、今上陛下の思春期なんですね。
年齢的にも影響はかなりあったのではないでしょうか・・・。

今の日本という環境自体、何か少しネジが抜けているというか、腰が据わっていないというか、何かそんな気がします。それが、敗戦と思想の急変というものをひきずっているのか、日本という国のそもそもの特徴なのか、よくわかりません。

「昭和天皇VS三島由紀夫」という、心の対決があったとしたら、そこから少しは何かが見えるのかな-。

現在、在学中の人より、前の世代では、皇族の人はほぼ学習院に通い、必ずその青春をそこで過ごしているのですから、しかも、学外でのクラブなどに気軽に入れる御方達ではないので、学習院の教室の雰囲気は、皇族の方々になにがしかの影響を与えているはずです。

でも、「帝王学を授ける」主体的な動きをしていたか、それとも、ただ過ごした時間の結果として人間形成に影響したかは、わからないです。
何しろ自分はまったく必然性無く、なんとなく学習院にいた外野みたいな庶民でしたので。匿名様のような深い部分はわからないし、また、浩宮さまとも三島由紀夫のご遺族ともクラスも違うし。外野なりに感じたことなど。

………三島事件については、

ガーネット様 2011/07/07(Thu) 

私は約十数年後、三島氏が演説していたのを建物の下から実際に見て聞いていたという自衛官の話を、巡り巡って耳にしました。
あれほどの大事件だったのに、巡り巡って耳に入ってきたその自衛官の話は、事件とはかなり乖離したものでした。
ルビー様の貴重なお話の後に書かせていただこうかと思うのですが……あまりにも軽すぎる話なので今、逡巡しています。

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三島由紀夫自決の日の初等科 その2

2011/07/07 (Thu)

三島由紀夫自決の日の初等科 その2(ルビー様wrote)

1970年の11月25日。ある学習院初等科生のお父さんであった三島由紀夫は、ある学習院初等科生のお爺さんの事を「万歳」と叫び、自決をしました。これは、たまたま同じ時期に同じ学校にいた子どもにとっては、なんとも理解するのが難しい事件でした。

しかし、この事件を解明することで「今の皇室をめぐる問題点」が判りやすくなるかもしれない。
そう自分は考えております。

この難しい事件を考えていくために、まず「人」というものを、概念や記号と、実体とに分けて捉えたいと思います。
つまり「北白川殿下」とか「近衛丸丸」と言うのが記号であり、「23kgの元気の良いせっかちな男の子」とか、「少し太っていてはにかみやの女の子」とかが実体です。
そして、その実体は精神と肉体とから成りますが、その両方の原動力の一つとしてエロスを捉えます。

それから、この事件の解明のために、
1・学習院という場、
2・昭和天皇の考え方、
3・三島由紀夫の考え方、
4・現代の天皇制の問題と現状、
という4つの切り口をもうけたいと思います。

それでは、まず「学習院という場」から考察していきましょう。
学習院という学校は、創設以来長らく「記号」上の意味の大きなお子さん達を預かっていました。
そして、そのお子さん達の「実体」を育成していました。

例えば明治の時代は、官軍の師弟と賊軍の師弟が同窓だったりもしたでしょう。
しかし、何か心の軋みとか反発意識とかはあっても、とりあえず同じ学校の学生としては平たくいこう、というのが校風としてあったはずです。
常磐会の会長をされていた方の文章をご紹介します。
多分、大正10年頃のお生まれの方かと思います。
「確か一、二年の頃と思います。私は初めて全甲をとりました。
嬉しくて通信簿をまわりの方に見せてにこにこしていた時、『先生方は宮様にはみな全甲をつけるのよ』という声が耳に入りました。
強いショックを受けました。(中略)その時から、だまっていつか実力を認めて貰うほかないと思いました。」とあります。
学問のもとに皆が平等であるはず、という建前があり、それがそうではないかもしれない、という逆差別のような意識も働いてる、戦前の学習院生徒らしい心の綾です。
昭和天皇も、乃木院長に他の生徒とわけへだてなく厳しく接されて、喜んで初等科に通われていたと伝わっています。

みんなで同じ空間にいれば、「あの人達も食事をする」「自分と同じ物を食べた」「トイレに行った」とわかるわけです。
皇族と男爵の身分などは違っても人間 同士であるという事を、子ども達の心にそれとなく共有させながら、実体としての人間の育成=勉学を進め、友情を育み、人間力を高める、に励ませていた学習院。
この「それとなく」というのが、「学習院らしさ」の一つではないかと思います。
やんごとなき人達を守る行為は、それとなく行わなければならない。
学習院は大きな記号性を背負った子ども達の「プライベートな場」だったと思います。
もっと言ってしまえば、表では偉く振る舞わなければならない人達が記号から解放される「楽屋」みたいな場所だった。

人間は、24時間いつでも偉いという訳にはいかず、お風呂に入ったり、詔の練習をしたりする。
ですから、使用人は宮中で見た事を他言してはいけないという決まりがあり、御所の中はプライベート空間で楽屋だった。
これも、戦前は守られていた事であると思います。
戦後になって、その決まりが緩くなった。
知っている方のお婆さまが女官だった時に、昭和天皇のミッキーマウスの時計を拭いていて落としてしまったそうです が、そういう事がもれ聞こえてくるようになった。
しかし、やっぱりその時代の人は、やんごとなき人達を守るために大事なことは口外しなかったと思いま す。

さて、話を自分の時代の学習院に戻しますが、戦後になり、平民も入学できるようになった学習院は、1960年後半~70年には、平民が居心地悪いわけでも なく、でも、昔は偉かった人達があるパーセンテージいたので、皇族もそんな人達のトップバッターみたいな感じで存在している学校でした。
当時は、家元など で家業を継がないとならない人達も居て、浩宮さまが職業選択の自由がないのも、多少は周囲と馴染んでいました。
そして、1970年の学習院には、まだ、「身分は違っても人間同士であると、それとなく悟らせる」「特別な人達をそれとなく守る」「学習院はプライベート空間である」という気風がありました。
例えば、浩宮さまの学年に何かが改善され、少しだけ優遇されるような事もあったのですが、その前の学年の後半から行って、マスコミには気づかれないようにするという気配りも、学習院はそれとなく行っていました。

ただ、美智子妃さまは、学習院が楽屋であると考えず、ステージだと考えていたようなところがあって、ちょっと浮いていたかもしません。

1970年11月25日、なぜあの三島事件の日を自分は覚えているのか。
当時は左翼の争乱などで電車通学が危険な日は学校の休みなどの処置がとられていたので、あの日も学校側が何か対策を考慮し、生徒も知ったのかもしれません。
当時は今よりも騒動が多く「新宿争乱」などは、自分たちが通っている駅が市街戦の場になるというトキメキがあり、翌日壊れたホームに立って電車を待つ気分はとても面白いものでした。
それでも、あの三島事件は怖くてかつ「的外れ」のような可笑しさもありました。

しかし、学習院はそのまま、幾人かの先生がムニョムニョと何かつぶやいただけで日々を送っていったと思います。
三島由紀夫のお子さん達は、私からは断然気 の毒に思えたけれど、学校は、大きな対策も、騒いで傷口に塩を塗り込むような事もせず淡々としており、周囲の父母も静かにし、お子さん達も転校などせずに その後も過ごしておられたように思います。

それが、学習院の「実体としての子どもを守る楽屋」としての底力であったかもしれないと、最近は思うようになりました。

それでは次に、三島由紀夫に「などてすめろぎは人となりたまひし」と言われた昭和天皇の考え方について、考えてみたいです。

その3に続きます、

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♠ 三島由紀夫自決の日の初等科 その2追加

すいません。
学習院初等科に通っていた三島由紀夫のお子さんは一人でした。記憶違いです。
所詮自分はこのていどの外野であります。
もう一人のお子さんは、お茶の水付属に通っていました。同じお茶の水に在籍し当時そのお子さんの顔見知りだったという方が、11月25日に、そのお子さんの事を気遣い、ショックで頭が真っ白になったと言う事をブログに書かれていました。

(お茶の水付属では昼休みに生徒達が自由に教室のTVを見ることができ、そこで事件を知ったということです。さすがに開明的です。
学習院が、社会の授業など以外にTVを見たのは、1969年に人類が初めて月面着陸した時くらいかと思います。)

その方も、同窓生へのもっと私よりリアルな心配と、加えて事件の写真や報道のおどろおどろしさに恐怖に駆られたそうです。

1970年には、よど号のハイジャック事件なども起き、日本は経済発展しながら世相は大いに揺れていました。
しかし、当時はベトナム戦争という、明らかに アメリカの手前勝手な戦争もあり、一般人の気分は左翼に共感が強く、よど号事件などは「やったなあ」というような見方が大きかったと思います。
それは子どもにもなんとなく判りました。全共闘や左翼に民衆がはっきりと失望したのは浅間山荘事件だと思います。

それに比べ、三島事件は変わった事件で、一般人は共感というより不可解という気分だったように思います。不可解だった点は自衛隊員にとっても同じだったのではないでしょうか。

しかし、その影響があったのか無かったのか、学習院では国語の先生が、乃木院長の訓戒のようなものを廊下に貼りました。

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三島由紀夫自決の日の初等科 その3

2011/07/07 (Thu)

三島由紀夫自決の日の初等科 その3(ルビー様wrote)

それでは次に、昭和天皇の思考方法を見ていきましょう。

昭和天皇にとっては、天皇という「記号」と、裕仁自分自身と言う「実体」は、明確に分けて考えられており、それは二十歳の頃から亡くなるまで一貫していたように思います。
天皇という記号は重要で、それを担うという責務は重大だと考えつつ、それだから自分自身の実体がいきなり立派になるとは考えず、役目に耐えうるような実体になるように地道に努力していたという感覚でしょうか。

天皇制という重大な演目(決まり事と言ってもいいかもしれません、演劇ではないので)は、日本国の運営のために欠かすことができないと信じていた。
そして その主役をやるからには、時には装束に身を包み神に祈り、時には国会で大臣を認証し、時には軍馬にまたがり軍の観兵式に臨む。それは誠心誠意やる。
大雨の中に立ち続けてもやり通し国民と日本国に真面目に対応する。
しかし、楽屋=宮中の私室など、に入れば一人の人間である。

これは、昭和天皇一人の感覚ではなく、昭和の初めには、貴族であれ、政府であれ、その多くの人は、自分は天皇制という国家の演目の何々係であると考えていた。
あるいは、国家運営のために、この演目を使う側だと自分を位置づけていたのではないでしょうか。
大正天皇が皇太子であった頃は、予定をはずれて自転車で出かけたり、国民に気軽に話しかけていたという記述もあり、ある時まで日本国を運営する側は冷静に天皇制を見ていたと思います。
「天皇は現人神である」と考えたりしてはいなかった。

その一方で、国民津々浦々には「教育勅語」として、比較的ふつうの道徳論の上に、天皇への忠誠を置いて教育しており、ここが後々問題点になります。

「天皇が神として国民とまったく遊離しているのは、過ぎたることだと思う。
皇室は英国の皇室の程度にして、国家国民との関係は『君臨すれど統治せず』という程度がよいと考える」
「いったい、軍が天皇機関説を悪くいうのは矛盾じゃないか」
「憲法第四条の『天皇は国家の元首云々』は、即ち機関説である。
これを改正することを要求するとすれば、憲法を改正するほかない」
「皆と同じように内蔵を持っているから私も人間だ」

というように、二十歳の頃からずっと、昭和天皇はいたって合理的に考えながら、日本が神国となり全体主義になることを止めることも出来なかった。

まったくもっておこがましいけれども、昭和天皇を評するとしたら、弱点としては、立憲君主にこだわり過ぎていた事と、決断が少し深長すぎるという事が言えるのではないでしょうか。
当時の大日本帝国国憲法は、軍の統帥権も天皇にあり、プロシア型の憲法だったから、天皇はむしろ「啓蒙思想を掲げる絶対君主=啓蒙君主」として、おりおり に御聖断をして、軍部の非合理性を押さえた方が良かったかもしれません。
でも、そうしたら昭和天皇は隠岐に流され、弟君の誰かが天皇に奉られていたかもし れません。
大正モダニズムから、昭和10年過ぎての急激な右傾化は、その時代に生きていなかった自分にはわからない民族の無意識的な暴走があったのかもしれません。

一方、昭和天皇の長所は、常に合理性を重んじ、自分の立場に自己陶酔することも、捨てばちになることもなく、摂政になった20歳から87歳まで、天皇の役割に前向きに取り組んだ事ではないでしょうか。
戦争末期に独り言をおっしゃりながらぐるぐる歩いていたのは知られていますが、軍も政府も嘘の報告をしてきて信用成らず、相談する相手もいず、兄弟も軍に 取り込まれる可能性があり、それでも発狂もせず、誰かを苛めもせず、敗戦を受け止めたのは「実体としての裕仁自身」の不断の努力であったと言えると思います。
また在位期間一貫して生物学者として研究に取り組み、天皇という役割から解放されるリフレッシュ時間を設けるなど、セルフ・プロデュースも上手だったと思います。

さて、日本と天皇は敗戦を迎え、そして天皇制は民主主義国家とともに歩むことになります。

「などてすめろぎは人となりたまひし」。
これは、1946年に発布された昭和天皇の詔書、通称「人間宣言」への批判と言われています。
海軍の神風特別攻撃隊の英霊達が、国体と天皇の永遠性と、自分とが一体化することを信じて玉砕したのに、天皇に人間宣言をされては、魂の行き先がないと、「などてすめろぎは人となりたまひし」と昭和天皇に恨み言を言う。それが、三島由紀夫の「英霊の聲」の主題です。
(2.26事件はさらに複雑なのでこの考察からはずします。)

すめろぎである昭和天皇としては、ずっと人間だったしそう考えていたのがやっと公になっただけなのに、神をやめるとは無責任と言われるのは、どういうことだ、となるかと思います。
しかし、行きすぎた精神論を振りかざした軍隊も、昭和天皇を大元帥に据えていたのであり、昭和天皇が反対しても聞かなかったがそれでも、天皇にも責任はあるのだから、英霊達が「自分たちと共にあってくれ」と言うのも理がある。

一方、昭和天皇は、敗戦責任はとりたいと、退位などはなんども政府に切り出していたと思います。しかし三島の提案のように「宗教観や空想性いっぱい」に「陶酔した感覚」で責任をとるのは、断固ご免被りたいというところではなかったでしょうか。

ただ陛下御一人,神として御身を保たせたまひ
そを架空,そをいつわりとはゆめ宣はず
(たとひみ心の裡深く,さなりと思すとも)
祭服に玉体を包み,夜昼おぼろげに
宮中賢所のなほ奥深く
皇祖皇宗のおんみたまの前にぬかづき
神のおんために死したる者らの霊を祭りてただ斎き,ただ祈りてましまさば
何ほどか尊かりしならん

この尊い陛下とは、天皇と言う「記号」なのか、裕仁自身と言う「実体」なのか判りません。
と言うか、裕仁自身と言う実体は、心の裡深くでは架空だなあと思っていても、「この世に楽屋はない、この演目だけが現実なんだ」と、フィクションをやり通せと言うのが三島の注文でしょう。

さて、戦後に「人間宣言」などをし、長年の理想だった「立憲君主」になった昭和天皇は、再び政府や軍が、天皇や皇室が「現人神」だと言い出したりする事が ないように、天皇や皇族の「人間らしさ」を多少見せるという工夫を始めます。(そう政府に勧められたというのもあります)

そこで、私達皇族の人間らしさはこんな感じですと、今まで「プライベート空間=楽屋」だった部分を一般に公開するようになります。これがいわゆる「開かれた皇室」です。

しかし、ここから問題点がまた発生していきます。
「開かれた皇室の暴走」です。
あくまでも「楽屋もあるんですよ」と、自分たちの私生活を少し露出するはずが、「楽屋もまたステージである」という風に誤解する者達が現れた。

楽屋にどんどんスポットライトを持ち込むような、私生活こそ皇室の証であると言うような逸脱です。
この逸脱は、マスコミと当時の皇太子妃の誤解により助長されたと思います。

三島由紀夫は「楽屋はないと言え、この演目だけが現実だとやり通せ」=「現人神であれ」と主張し、
マスコミや当時の皇太子妃他は「楽屋こそ、最高のステージ」=「私生活こそ皇族の意義」と誤解した。

現代の皇室への混乱の種が蒔かれました。

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三島由紀夫自決の日の初等科 その4

2011/07/10 (Sun)

三島由紀夫自決の日の初等科 その4(ルビー様wrote)

それでは、次に三島由紀夫の思考を見ていきます。

前回の復習になりますが、1960~70年頃に、三島由紀夫は「天皇は現人神であれ」=「楽屋はないと言え、この演目だけが現実だとやり通せ」と主張し、一方、マスコミや当時の皇太子妃他は「私生活が皇族の意義」=「楽屋こそ、最高のステージ」と誤解してしまいました。

皆さん、2011年の現在、この二つの思考法がおかしな形でくっついて、皇室を取り巻いているように感じませんか?

そして、前回、昭和天皇について長く書いてしまいましたが、裕仁という人の実体は、合理的思考の持ち主で、考え方が一貫していて、自己陶酔したり捨てばちになったりしない人でした。
これは素晴らしいしいことですし、どうも現代の皇室で失われがちな感覚ではないかと、皆さん思いませんか?

それはともかく、三島由紀夫のことを考えていきます。
自分は文学に詳しくなく、三島の作品も少ししか読んでいない体たらくです。
ですので、「英霊の聲」と「憂国」「十日の菊」の3つの作品と、「三島事件」についてに絞って考察します。
三島事件はすなわち、三島由起夫が楯の会メンバーとともに、市ヶ谷の陸上自衛隊総監部を乗っ取り、自衛隊の決起を呼びかけた後に割腹自殺をした事件です。

「嗚呼、非合理だなあ」とすでにタメ息が出そうですが、先にその非合理性について分析します。

まず、三島は記号と実体をごっちゃにしています。(他も色々混乱させていますが。)
記号=三島由紀夫という思想家が、自衛隊を思想的に喚起しようとした。これは良いのですが、それで何故、実体=平岡公威(本名)という人が切腹をしなければならないのでしょう。
しかも、平岡公威さんは良いパパだったようです。
子どもから見たら、「などてパパは切腹したまひし」ですし、「などて三島由起夫はマイホームパパとなりたまひし」です。
英霊達が昭和天皇を信じていたと言うなら、お子さん達も平岡公威パパを信じていたはずです。

昭和天皇のように軍部に押されて仕方なく・・というのではなく、平岡公威パパは自ら家庭人として子どもを作り慈しんでいて、そのくせ自ら事件を起こして切腹したのです。
しかも内蔵が出ていたという報道や、生首写真などの恐ろしいイメージを残して。
我が子や、その周囲の子ども達に、迷惑千万じゃないですか!

それから、自衛隊へ対し行った事も非合理です。

「日本国憲法や日米安保体制では、自衛隊は日本国軍にはなり得ず、アメリカ軍に属す一部隊のようなものだ、情けない、日本国の軍として目覚めよ」と、自衛隊を鼓舞することは良いと思います。
「その通りだ」と思う部分もあります。
しかし何故、切腹しなければならないのでしょう。

軍隊は戦うためにあり、戦争するからには勝つようにしなければなりません。
「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」とか「生きて虜囚の辱めをうけず」等と考えるのは「葉隠れ病」のようなもので、強くて独立した軍隊を望む者の考えではありません。
葉隠という書は、江戸中期の太平の世で、日常全く戦っていない武士が、武士の在り方を空想的かつ美的に描いたものです。
このような書に軍隊がカブレてはいけません。
(第二次世界大戦時に東條英機が作った「戦陣訓」も「葉隠れ病」です。)

1970年当時は、ベトナムが果敢に大国アメリカと戦っていた時期です。
ベトナムでは、例えば女性は、バンザイと言って崖から飛び降りたりせず、アメリカ 軍に雑用婦として雇われ、しかし食料を時々くすねてゲリラの同胞達に渡し、かつ夜になるとこっそり地雷を埋めてアメリカ軍を妨害していました。
美的ではないが「小国でも勝つ気のある戦い方」です。
三島由紀夫は、ベトナム兵の粘りとしたたかさを礼賛して、自衛隊を鼓舞すべきだったのではないでしょうか。昼時でしたから、自衛隊員に檄文と共に生春巻きを配っても良かったかもしれませんね。

しかし、しかし、三島由紀夫は、何が何でも、自分の美学で行動したかったのでしょう。
その原動力には「陶酔」「エロス」があったのでしょう。

実体=平岡公威自身は、記号=三島由紀夫としての美学を貫くために、平岡公威自身の生活は置いてきぼりにし、エロスだけ道連れにして逝ってしまったのです。

このように、非合理性が強い三島事件ですが、大きく未来を示唆するものもあったと思います。
そこが、芸術家としての三島由紀夫の才能だったのかもしれません。

ですので、ここからは、三島由紀夫の先見性について分析します。

一つは、民主化と経済発展で浮かれたようになり、「戦争の時代に日本がしていたこと」「英霊達のこと」を日本人がすっかり忘れてはいけない、という訴えかけです。

もう一つは、日本から「道徳」が失われているということ、「日本は空虚で、経済的な成功だけを追っている」という訴えかけではないかと思います。

「私の中の25年:三島由紀夫 果たし得ていない約束 恐るべき戦後民主主義」
死の4ヶ月前に三島由紀夫が新聞に寄稿した文章の一部です。
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。
このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。
日本は なくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。
それで もいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。」

バブル時代や、格差時代の来る前に、このような閉塞感を予測していたのは、偉いなあと思います。

そして、このような状態は、戦後民主主義がもたらしたと三島由紀夫は言うのですが、私は、それよりも、戦後の急激な価値観の変容を日本人があっさりと受け入れてしまったこと、そして「教育勅語」のような、充分まともな部分がある道徳教育を、皇祖皇宗といった言葉があるからと、教育から除外してしまったことが大きいように感じます。

昔は尋常小学校に載っていたという、昭憲皇太后の作られた歌「金剛石・水は器」なども、充分まともな道徳であったと思います。

しかも、政治への関心は、市民主義の「権利と義務」であるのに、日本人は、60年代後半に熱狂的ブームのように「政治の季節」を迎え、しかも、その後始末もせずにブームとして忘れました。
高校、大学などの「自治会」は顧みられなくなり、自治をめんどくさいと手放しました。こうして学校教育はより閉塞感のあるものになり、いじめ恐怖や群れ願望が子どもを覆うようになりました。

日本は、古来からの価値観と美徳を忘れ、しかし、外国からもたらされたデモクラシーの本質は理解せず市民としての義務を怠った。
(みんなで話題にしている、例の老いたご夫婦のようですね。)

と、そういう危機感を三島は訴えたかったようにも思うのです。
が、そこで神国とか言ったり、切腹などしてしてしまうから、古来からの善き価値観に、また非合理な葉隠れ病が染みついてしまいました。三島由紀夫は、困ったちゃんだなあー。

次には、現代の天皇制の問題と現状について考えたいです。

その5へ続きます。

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記号と実体

2011/07/07(Thu)

記号と実体 ペリドット様 wrote)

次のルビー様のものを拝見してからとも思ったのですが。
感想というか何というか。図々しくも書きましてすみません。

「内閣総理大臣」は、単なる「記号」というだけでない、ある種の<実質>があるような。
「経産省の主導で原発運転再開を決めるのはいかがなものか」という意思を表明し、「ストレステスト」を行うようにもっていく力がある。
内閣不一致を表面化させてしまい、単なる功名心とか思いつきでくるくる判断を左右してるんじゃないの?と思わせる部分(リーダーシップとかでな く)は、きっと菅直人という人の「実体」によるものであり、そこら辺は「内閣総理大臣菅直人」の値打ちを下げているようにも思いますが
ともかく、「内閣総理大臣」は「記号」であるとともに、ある種の<実質>がある。菅直人という「実体」とは無関係に。

これに比べて、戦後の「天皇」「皇族」っていう「記号」は大変不思議です。
まず第一に、ある意味純粋に「記号」のような。ここにまつわる<実質>って? 過剰な警備に守られながら、きれいな衣装を着て、微笑みを浮かべながら挨拶する、誰かのお仕着せ文言を読み上げる。分刻みのスケジュールと共に。
あるいは、伝統通りの祭祀を行う。
いずれにしても、「天皇」という記号は、怖れ畏むべきものと言われつつ、一方で虚無、あるいはもしかして厄介なもの?、つまりどう距離をとっていいかわからないもの、という印象が強くあります。
やはり天皇という存在と、先の大戦というわけのわからない狂熱とが、結びついていた?ような怖さがあるしはっきりと身分制は時代遅れの思想という判断もある。
そのなかで、国民国家統合の象徴、とは、どういう「記号」なのか。

現在は、政治にもあまり関心が払われていないけれども、政治への無関心と、天皇という存在への無関心は、ちょっと質が違うような気もします。

ともかく、戦後の「天皇」「皇族」という「記号」は、<実質>のうすい分、「実体」に依存するというか、「実体」から喚起される<イメージ>に大きく左右される気がする。
早い話が、先ほど書いたありようが、「記号」の戯画か、それとも確かに有り難いものと思えるかは、その「実体」から立ち上る<イメージ>によって左右されている。

けれども近年は、<イメージ>にしがみつくゆえに、「実体」を大切に育むべき楽屋までもが浸食されている。

本当は、<イメージ>は「実体」と無関係ではない。豊かな「実体」と無縁に、<イメージ>だけでは騙されない。そこまで国民はバカじゃない。

また「実体」が見失われ、不幸になってまで維持される「記号」性、つまり「記号」の一人歩きは、何となく破滅の道に繋がっている気がします。それ なら「記号」性を徹底させて、試験管にいれたy遺伝子でも何でも崇め祀る方がマシ。「記号」の一人歩きであることがはっきりとわかるから。

なのに<イメージ>で何とかなると考え、「実体」を軽んじて憚らない。

そんな時代なのかなあと、ルビー様の記事を読みながら感想を持ちました。

Re:記号と実体

管理人 【2011/07/07 18:29】

>「内閣総理大臣」は、単なる「記号」というだけでない、ある種の<実質>があるような。
>「経産省の主導で原発運転再開を決めるのはいかがなものか」という意思を表明し、「ストレステスト」を行うようにもっていく力がある。
>内閣不一致を表面化させてしまい、単なる功名心とか思いつきでくるくる判断を左右してるんじゃないの?と思わせる部分(リーダーシップと かでなく)は、きっと菅直人という人の「実体」によるものであり、そこら辺は「内閣総理大臣菅直人」の値打ちを下げているようにも思いますが
>ともかく、「内閣総理大臣」は「記号」であるとともに、ある種の<実質>がある。菅直人という「実体」とは無関係に。
>
>これに比べて、戦後の「天皇」「皇族」っていう「記号」は大変不思議です。
>まず第一に、ある意味純粋に「記号」のような。ここにまつわる<実質>って? 過剰な警備に守られながら、きれいな衣装を着て、微笑みを浮かべながら挨拶する、誰かのお仕着せ文言を読み上げる。分刻みのスケジュールと共に。
>あるいは、伝統通りの祭祀を行う。
>いずれにしても、「天皇」という記号は、怖れ畏むべきものと言われつつ、一方で虚無、あるいはもしかして厄介なもの?、つまりどう距離をとっていいかわからないもの、という印象が強くあります。
>やはり天皇という存在と、先の大戦というわけのわからない狂熱とが、結びついていた?ような怖さがあるし
>はっきりと身分制は時代遅れの思想という判断もある。
>そのなかで、国民国家統合の象徴、とは、どういう「記号」なのか。
>
>現在は、政治にもあまり関心が払われていないけれども、政治への無関心と、天皇という存在への無関心
は、ちょっと質が違うような気もします。

これは、戦前も同じで、いわゆる大日本帝国憲法の「輔弼」に由来するものではないでしょうか?
日本国憲法の「内閣の助言と承認」にあたるものではないかと。
ただ、戦前の天皇は統帥権がありました。
これとても「実体」があるようなないような形ですが、軍隊は一度動けば、軍勢もそれによって外交も内政も変わってきます。

明治・大正とは違い、「天皇」の名のもとに戦争が始まり、初めての敗戦だったことで、昭和天皇の「戦争責任論」が喧しいですが、戦前も戦後も「天 皇」としての実体というのは、あんまりなかったんではないかと私は思っています(軍人たちが昭和天皇を軽く見ていたエピソードは満載ですし)。

Re:記号と実体

【2011/07/08】ルビー様

>ともかく、戦後の「天皇」「皇族」という「記号」は、<実質>のうすい分、
>「実体」に依存するというか、「実体」から喚起される<イメージ>に大きく
>左右される気がする。

>けれども近年は、<イメージ>にしがみつくゆえに、「実体」を大切に育むべき楽屋
>までもが浸食されている。

>また「実体」が見失われ、不幸になってまで維持される「記号」性、
>つまり「記号」の一人歩きは、何となく破滅の道に繋がっている気がします。

>なのに<イメージ>で何とかなると考え、「実体」を軽んじて憚らない。

ペリドットさま。そうだと思います、私も。

飾っておくのが重要な鏡餅、でも食べても美味しい。
「これは美味しいのがポイントの鏡餅です」って売りに出した。
そのうちに、鏡餅作りはいい加減となり、まずいのに、美味しいっていうコマーシャルをイメージ戦略にしだした、みたいな。

人間がやっているんだから、その人間に耐えられない事を皇族に求める方もオカシイ。
しかし、天皇制の先を考えずに、今の自分の実体が(イメージかも)が褒められていれば良いとおもっている一部の皇族の人達もオカシイ。

だったら天皇制をなくせば良いじゃないと、思いますよね。

しかも、天皇制と道徳観がヘンな風にくっついているのが、(実は真逆みたいに道徳を外れているのにね)、さらに混乱に拍車をかけている気がします。

長文失礼してますぅ。

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天皇という記号

2011/07/10(Sun)13:16:48

天皇という記号 ペリドット様wrote)

「記号」に<実質>がある、って言い方は、「記号」という言い方になじまない気もして、少し反省。
つまるところ、「記号」の意味というか、天皇陛下って何だ? ってときに、人々がイメージできる、役割とか権限とか権威とかいったもののこと、人々の心や行動に作用できる力みたいなことを言いたかったんです。
確かに、管理人様の言われるように、戦前の「天皇」にも実質的な権力は案外少なかったし、権威を思ったほどではなかったかも(NHKスペシャルによれば、陸海軍も内閣もマスコミもこのまま大陸の戦況を拡大していったらヤバイことになる、とわかっていたのに、戦意高揚に 沸く民意と直接対峙して米の要求に屈する=大陸からの撤兵、を実行する勇気が持てず、ぐずぐずしているうちに、真珠湾=アメリカとの開戦、になったそうで。
つまり、天皇の権威をもってしても、民意を鎮めアメリカの要求に従う方向に民意を誘導する自信がなかった。
自分たちの掲げている陛下の権威について、 実は一番疑っていたのが政府であり陸海軍だった?)
でも、戦前の「天皇」の方が、「天皇」と言う記号について、何か意味があった。権力は少なく、権威もいまいちだったけど、何か実質があったような気がします。

でも戦後の天皇は、その意味がはっきりしない。どんな実質を孕んでいるのかよくわからない。
下手すると、何か苦くて怖いものが入っているような気さえする。
「日の丸」「君が代」に手放しで心酔できない気がするのと同じです。
(ペリドットは卒業式での起立斉唱に反対するほどしっかりした信念は持ってはおりませんでしたが、ぐずぐずした気持ちを持つ人がいるのは理解できます)

ルビー様は

>再び政府や軍が、天皇や皇室が「現人神」だと言い出したりする事がないように、
>天皇や皇族の「人間らしさ」を多少見せるという工夫を始めます

とまとめられましたが、また昭和天皇ご自身のお気持ちもそうだったのかもしれませんが、
(ついでに言えば、長くそうだと私も思っていましたが)

虚妄な象徴天皇という記号、場合によっては悪い意味すらまつわりついているこの記号に、
「開かれた皇室」、つまり「実体」をチラ見せすることが、
良いイメージを作り、天皇という記号に良い意味を付与するものとして作用したんじゃないかと思います。
戦後天皇制は、虚妄な記号を補う「実体」、もしくは「実体」の喚起するイメージが宿命的に必要で、
「開かれた皇室」はそこにぴったりあてはまった。

それにしても、ルビー様の書かれる昭和天皇のお人柄、素晴らしいなと思います。

>常に合理性を重んじ、自分の立場に自己陶酔することも、捨てばちになることもなく、
>摂政になった20歳から87歳まで、天皇の役割に前向きに取り組んだ事

誠実に真っ直ぐに自らを見つめ、取り組み続ける。努力し続ける。誤魔化したりズルに逃げたりせずに。
そういう生き方は、実は本当に強く賢い人にしかできない生き方です。
そして、宿命的に虚妄と負を抱え、「実体」または<イメージ>からの補充を必要とする、戦後の天皇という「記号」に、ますます必要な、豊かな「実体」のように思えます。
今は、皇太子殿下にこそ受け継がれている、本当の強さと賢さ。

それに対してあのときの皇太子妃には、豊かな「実体」は少々不足しておられたのかもしれませんね。
平民であることを補い、強くしなやかに賢くひたむきに生きる誠実さ、そういう誠実な生き方を貫ける心の強さは不足しておられた。
いつの間にか、マスコミが作ってくれた<イメージ>に補ってもらう生き方に逃げてしまわれていたのかな、と思っています。

三島由紀夫

匿名様 2011/07/18(Mon)

三島由紀夫は、皇太子妃に正田美智子が決定した時、それを画策した小泉信三を、「国賊」と罵ったのでしたね。
何だかわかる気がする。
三島さんのこの当時学習院に在学していたお嬢様、お元気でご活躍です。

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三島由紀夫という話

2011/07/10(Sun)

三島由紀夫という話 ペリドット様wrote)

私も三島というと、金閣寺とかいくつか読んだ程度ではあるのですが、人物論というと、コノ方、後年マッチョに寄りすがっていったけど、もともとはとても繊細な方、というイメージを何となく持っております。
受容してくれるはずの両親から引き離され、おっかない祖母上から「平岡家の立身出世」を叩き込まれて育てられた、不幸な少年時代。
身の丈に合わない学習院に通ってややコンプレックス、やがて祖母上が望んだ「高等文官試験」じゃなくて文学の道に進んでいく、というような。
ちょっとうろ覚えなので、自信ないですが。

なので何となく、弱い犬ほど良く吠えるみたいな、繊細さが極端な道を選ばせ、マッチョな天皇制に寄りすがらせた結果のように捉えておりました。

ただ、このところのルビー様の記事を読んでいろいろ考えるに
戦前を否定して出発した戦後の、どの部分に日本人としてのアイデンティティがあるのか、そこのところを、繊細で鋭い作家的感性で、悩み、見据えていたのかなと思いました。

私は昭和30年代生まれで、皇太子ご夫妻の中間ぐらいの時期の生まれです。
そのせいか、戦前というのが何となく恐ろしい時期だという思いはあっても、じゃあ、それを否定していまある戦後は何なのか、そこに真剣に向き合い悩むことのない日々でした。
何となく、平和が続き、豊かであることはいいことだという。そこに満足しきっていて。

もちろん、平和が続き、豊かであることは良いことです。
そして、個人的には、戦前の一番イヤなところは「狂熱状態」、みんなで同じ方向を向き、生きていたという、あの感じ。
あれにだけは戻りたくありません。

でも、戦前を否定するとして、では戦後の日本の良さって何なのだろうか。
私の中では、今では皇太子ご夫妻の生き方が一つの指針なのだと思えますが、
でもそれは、これまでの日本の伝統、あるいは日本という国のアイデンティティとどう結びついているのだろうか。

そんなことを、一人一人が真剣に考えなくてはいけないのかもしれない、そういう時期に来たのだろうか、そんなことを思いました。

それにしても、戦前を否定し、父天皇母皇后を否定するところにアイデンティティのあったかつての皇太子ご夫妻
でも、だからこそかつての伝統によりすがる側近からは、「昭和天皇に似る浩宮殿下にこそ期待」と言われてしまった。
でもそう言われてしまったとき、否定したその先が、実はやっぱり何もなかったのでしょうか。
だから、舵が切られてしまった?

否定の否定になってしまっている今。
そこに伝統があるとも限らないのに。

Re:三島由紀夫という話

管理人 【2011/07/10 22:04】

>ただ、このところのルビー様の記事を読んでいろいろ考えるに
>戦前を否定して出発した戦後の、どの部分に日本人としてのアイデンティティがあるのか、そこのところを、繊細で鋭い作家的感性で、悩み、見据えていたのかなと思いました。

私もルビー様の「三島由紀夫と天皇論」は目が覚める思いで読んでいます。
有難うございます。
若い人の感覚というのを勉強させてもらっています。

だから「そこはちょっと・・・」と思うところも、たぶん歳の差・経験したことの差だと思います。

ちょこちょことチャチャをいれますが、論理的な整合性を求めようというのではなくて、年寄りの思い出話を聞くつもりでいてくださいませ。

Re:三島由紀夫という話

ルビー様  2011/07/11(Mon)

>だから「そこはちょっと・・・」と思うところも、
>たぶん歳の差・経験したことの差だと思います

>ちょこちょことチャチャをいれますが、論理的な整合性を求めようと
>いうのではなくて、年寄りの思い出話を聞くつもりでいてくださいませ

どんどん入れて下さいませー。
なにしろ、書く宣言しちゃったものの、アセリながら、無知蒙昧をかえりみず突撃みたいに書いてます。

>なので何となく、弱い犬ほど良く吠えるみたいな、繊細さが極端な道を選ばせ、
>マッチョな天皇制に寄りすがらせた結果のように捉えておりました。

繊細で少し可愛い人のような気もします。
自衛隊総監部をのっとり、演説をしたときに、マイクを持っていなくて声がほとんどかき消えていたそうですね。
のっとりを企て日本刀持って行ったのに、なぜ拡声器も持って行かなかったのかなあって、思ってしまうんですよね。

RE: Re:三島由紀夫という話

ガーネット様  2011/07/11(Mon)

>自衛隊総監部をのっとり、演説をしたときに、マイクを持っていなくて声がほとんどかき消えていたそうですね。
>のっとりを企て日本刀持って行ったのに、なぜ拡声器も持って行かなかったのかなあって、思ってしまうんですよね。

うわぁぁぁ~ん!
三島事件の約十数年後に、巡り巡って私の耳に入ってきた話が、まさにコレなんですぅ!

書くべきか止めておくべきか迷っているのですが、書いた方が良いのかも?

うぅ~ん、どうしよう!?

♥ Re:RE: Re:三島由紀夫という話

管理人 【2011/07/11 11:57】

>
>うわぁぁぁ~ん!
>三島事件の約十数年後に、巡り巡って私の耳に入ってきた話が、まさにコレなんですぅ!
>
>書くべきか止めておくべきか迷っているのですが、書いた方が良いのかも?
>
>うぅ~ん、どうしよう!?
>
じゃぁ、先に私が私が見たこと(テレビや 雑誌で)それで思ったこと書きますね。

三島が市谷のバルコニーで演説始めたのは、ニュースで見ました。
あの頃ね、自衛隊って本当に気の毒な立場でした(今でもそう思うけど)。
70年安保で治安維持に活躍したのは機動隊で、もう自衛隊なんかいらんじゃないか、とか、世間も左翼志向が強かったので、オミソ扱いで、こんなで「国を守れ」と言われるほうも気の毒な有様でした。
うちの田舎の方では、自衛隊員もなりてなくて、そのへんのふらふらしてるのを、だますように連れてきて、人数あわせしてた。
訓練もだらだらとかったるそうにやっておったし、駐屯地のそばの道を歩けば、口笛は吹かれるし、かげで煙草すってさぼってるし、でも通りすがりの おじさんに「こら、ちゃんとやらんか」なんて叱られて「ふわ~い」なんて返事する、のどかというか素直というかw今の自衛隊員とは「意識」なんて雲泥の差 だよ。
もっとも今は市民からあんまり見えないようになってる。
目隠ししてあるというわけではなくて、配置も人ももっときちんとしてるw

まぁ、市谷にいるのは自衛隊のエリートたちだから、たぶん、三島はあの檄文を読み上げたら、自衛隊員が奮起すると思っていたんじゃないかな?
三島は左翼革命が起こったら、今の自衛隊では対応できないって、自分でも自衛隊に入隊したり、「盾の会」作って訓練受けたりしていたけど、多い時でたしか数十人程度、マスコミにも発表していたけど、そういう活動を自衛隊の人がどれだけ知っていたかなと思う。
三島もうぬぼれていたのだろうと思うけど、自衛隊員たちは日頃から「憲法違反」だの、「帝国主義」だのとさんざん言われていたから、三島にシンパシーを感じるほど近い距離にはいなかったんじゃないか?
むしろ「自衛隊」に「旧軍」と同じイメージをもたれるのは迷惑だったんじゃないかと思うんだよね。
「檄文」は読めば、確かに胸を打つ文でだけど、自衛隊員たちは三島がバルコニーに姿を現したとき「何しに来た?」みたいな空気が先にあって、「帰れ、帰れ」がひどくて、三島の声はほとんど聞こえなかった。
しまいには三島も涙声で「わかってくれよ」なんて哀願調だった。

マイクの一つもあげたかったと思うけど、三島の声がちゃんと聞こえても、自衛隊員が呼応したかどうかは私は疑問です。
逆に言えば、日本の軍隊(?)は簡単に「2・26」は起こさない、「暴力装置」ではないということだし。

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