渡辺みどりと入江日記

2013-04-01

渡辺みどり著「皇太后良子さま」

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美智子教信者のみどり先生は、実は「皇太后良子さま」という本も書いている。
どんなふうに褒めているのかと思って買ったのだが、美智子様にからむ話になると、どうやっても美智子賛美はやめられないらしい。

その後書きに自分で書いているのだが

「前略 渡辺みどり先生、あなたは間違っておられる。長年國母陛下として昭和の陛下に仕え、大任を果たされた良子皇太后を『意地悪姑』扱いするのは、おやめください。(後略)」
便箋三枚に書かれた、好意あるおさとしのお手紙であった。事実は一つ、解釈は多様なのである。

案外気にするんだな、とおかしかったが、「おさとしの手紙から事実は一つ」まで、たった一行だが、変な文である。
どうやっても「意地悪姑」を払拭できなかったか?

「良子様意地悪」で証拠のように出されているのが「入江相政日記」である。
たしかに「平民からとはけしからん」と良子皇后が秩父宮妃や高松宮妃と一緒になって訴えた、という記述があって、この「皇太后良子さま」にもちょくちょく出てくるのだが、本当に良子様は意地悪なお姑だったのか?気になって、みどり帽子が引用している入江日記の箇所を実物の方も読んでみた。

まず、渡辺みどりの方である。(P153-4)

私は美智子様の弟正田修氏、(現日清製粉社長)にインタビューしたことがある。「当時、私は高校生で理解できないこともありましたが、逆に年月がたつにつれ、あの時の両親は本当に大変だったろうなあという感じがいたします」と答えられた。これは弟さんの正直な実感だったと思う。
引き続き入江日記を引用する。
「昭和35年2月23日(火)快晴
4時15分親王ご誕生、御母子ともおさわりないとの事。これでよかった。本当に安心した」
「昭和36年8月11日
最近の奥のおかしな空気、東宮さまと妃殿下(現天皇、皇后)に対すること・・・・・・まったく弱ることばかり。下らなさに腹が立つが、そんな事話し合う」
「昭和36年8月16日(水)快晴
那須で東宮同妃から両陛下にいろいろのこの間からのことを十時すぎまで率直にお申し上げになったとのこと。お上はよく分かったと仰せになったが皇后さまは終始一言もお発しにならなかったとの事」
古い世代の貴婦人のプライドは「無視」という作戦をとられた。

これで言うと、浩宮さまがお生まれになって、しかし、奥ではやはり空気がおかしく、とうとう明仁皇太子と美智子妃は昭和天皇に直訴した。昭和天皇は「よく分かった」とおっしゃってくださったが、良子皇后は無視した、ということになる。
36年8月11日当時、入江氏はまだ侍従である。(この人の母方のじいちゃんと昭和天皇の祖母(柳原愛子)が兄妹の間柄、また三笠宮百合子妃は入江氏の姉の娘である)
下らなさに腹が立つと言っているから、大したことではないのであろう(つまり、侍従長の耳にいれておかなければならぬような話ではない、ということ)。
しかし、東宮と東宮妃にとっては、我慢ならないことだったのだろう。それを昭和天皇に訴えた。
渡辺帽子は完全に「美智子妃」の味方だが、入江氏はどう思っていたのだろう。

渡辺帽子は勝手なところだけ入江氏の日記を引用しているから、よくよく時系列でものごとを見ないとわからないが、実は「明仁美智子夫妻、那須で直訴」の前月、昭和36年7月23日に昭和天皇の第一皇女、東久邇成子さまがガンのためなくなっている。
良子皇后は照宮さまがもう助からないと聞いて、それでも奇跡を信じておかしな祈祷師にまですがられたと「陛下お脈拝見」の杉村医師が書いている。
照宮さまが息を引き取られた時には、もう涙も枯れてかたわらにぼんやりすわっておられたということである。
そのご心痛を癒すための那須行きであったはずで、そこへ夫婦して乗り込んで、侍従が「下らなさに腹が立つ」と言うくらいのことを、訴えるというのは、どうなのだろう?
いくら自分たちにとって重大事であっても、自分たちも子を持つ親となっているわけで、残された5人の小さい子たちの行く末、逆縁となった両親の悲しみ、そういうことを思いやらなかったんだろうか?
照宮さま、御年35才、おそらく心を残して逝かれたであろうその時からまだ1ヶ月もたっていないのである。
良子皇后はどんな想いで息子夫婦の訴えを聞いておられただろうか。

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入江侍従は美智子さんの味方だった

2013-04-01

3月12日の日記。

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良子皇后の美智子妃イジメの中でもよく知られた話である。
「アタシの時は馬は4頭だったのに、美智子は6頭なの?(平民あがりのくせに生意気じゃないの)憤慨だわ」というものである。
入江侍従は直接聞いたわけではないらしいが、時の皇后のご発言に対し「(そんなことおっしゃるなど)憤慨だ」と怒っているようである。
良子皇后の話で大変だと大騒ぎしているのは稲田侍従で、入江侍従は別にそれに同調するでなく、のんきに相撲を見ている(日付からいくと大阪場所である)。
ところが同日入江侍従にお召があり、特別緊急というわけでもないようで、相撲を見てから御前に出ると、陛下は美智子さんにたいそう期待をしていると仰せになったという。

馬のことは、翌々日の日記に顛末の記述がある。
3月14日(土) 快晴 寒 
「・・・・・・ご婚儀の時の馬の数は六頭でいいと仰せになった由、よかった。・・・」

平民からの初のお妃ということで、しかも最初から反対していたというので、良子皇后のちょっとした発言に、まわりがピリピリしていると言う感じがする。

おもしろいのは、3月7日の日記である。
「今朝も又正田さんが威張っているといふことから予が正田さんをひいきにし過ぎるといって君子が怒り出す。」
君子さんというのは入江侍従の奥様である。
侍従さんの奥様だから、あちこちからいろいろ話を聞くのであろうが、美智子妃をめぐって夫婦で意見が別れているのがおもしろい。

昭和天皇の御大礼は、関東大震災で延期になり、またぐっと質素に執り行なわれた。
明仁皇太子の結婚は、戦後の日本の復興を世界に知らせる意味があり、大々的に執り行なうことを政府は決めていたそうである。
ここでも美智子さんの運の強さがある。

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皇后さまには申し上げない

2013-04-01

昭和33年11月27日(木)の日記

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いわゆる正式に美智子さんが皇太子妃になると決まった日で、大きく衿のあいたパーティードレスに毛皮のストールのあのお姿でテレビに映られた。
手袋が短かったのでやんごとなき方たちから「やーっぱり平民はこれだから」と言われたとか、ずっと後にはあの手袋は実は宮内庁が用意したものだったとか、「美智子様ご苦労された特番」では必ず入っているエピソードの日である。
もっとも雅子さまの記者会見と並べて放映された時、ドレスの方に違和感を覚えた。あんな昔に、ちょっとかがめば胸の谷間が見えるようなドレスって許された?
当時は、着物でもミスなら衣紋をあまりぬかず詰めて着付けるなど、結婚前はあんまり肌を見せないとされてたように思うけど?(雅子さまがあの手のドレスで記者会見されたら、bakaiwaiなんぞ30年くらい叩くゾって思った)

ま、それはさておき、入江氏は美智子さんのお妃教育でも9回ほど先生役を務めている。
奥さんに「ひいきにし過ぎる」と言われるほど、美智子さんの入内には一生懸命だったようだし、美智子さんの両親を従えて一人だけの記者会見について
「この時の美智子さんの立派さは忘れられない」
と記している。
それより、朝10時からの皇室会議で全員一致で、正式に明仁皇太子と正田美智子嬢の婚約が決まったのであるが、長官より陛下に奏上、これはよい、しかし皇后さまには申し上げないというのである。
入江氏がびっくりして次長を皇后さまに差し向けている。
正式決定を皇后に報告しないなんて、宮内庁長官は皇后がこの期に及んで、また反対すると思っていたのだろうか?
もし面倒なことを言われたら困るからあんまり寄らんとこうという気持ちなのだろうが、皇后をないがしろにするも甚だしい。
皇后の方は、やはり身分制度があった時代に生きてきた方だから、なかなかすぐには頭を切り替えるのは難しかっただろうが、決まった事に対し、特別にムチャを言うというではないし、そもそも「皇后には言わんとこう」というのは、非常にけしからんことである。

4月8日の記述は、それがよく表れている。
「両殿下、正田家へいらっしゃることについて皇后さまにお許しを得てくれ」というのは、明仁皇太子が平民の家へ挨拶に出向くのを皇后が許してくれるだろうか、もしいけないって言われちゃったら・・・ドキドキ(長官)、ということなのだろうが、嫁の実家へ二人して挨拶に行くのは当然のことで、事実
「両陛下ともちっともご機嫌はわるくなく当然のことだといっていらっしゃった」
のである。

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次は義宮様

2013-04-01

2月6日の日記

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美智子妃は見事親王をあげられ、国民の評判もよく順風満帆である。
その影で香淳皇后様は弟宮を結婚させねばと走りまわっておられる。
2月6日の日記には
「九時半に長官のところへ行きこの間葉山で皇后さまがワンマンに義宮さまのことをお頼みになったこと等を中心に話す。・・・(中略)・・・稲田さんの所で一時間ほど駄弁る。義宮さまのは結局まだ何ともなっていないらしい。困ったことである。(後略)」とある。
苦労されている。

まんまと聖心女子大に皇太子妃の座をもっていかれてしまった学習院の常磐会では、今度こそはと巻き返しをはかったと皇室本で読んだ気がするが、入江氏が「国民の9割9分は絶対の支持をしている」と言うのは、お誕生日のお祝いも入っているかな。
しかし、女性週刊誌の美智子様賛美の記事は、ものすごい勢いだったことは確かだ。

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東宮同妃のご活躍1

2013-04-01

「書くことがあるなら入江に頼め」

入江氏は昭和天皇のご本の後書きを書いたり、自分でも新聞にコラム欄をもったりして、スポークスマンのような立場でいたようだ。
昭和天皇も「書くことがあるなら入江に頼め」とおっしゃるほどのご信頼だったようだ。
またお歌の選者もしておられ、皆様のお歌の清書をしたりで、新聞記者たちも寄ってくるし、知り合いも多い。
ただ、いわゆる東宮職ではないので、あくまで天皇・皇后のためのお仕事をされている。

3月2日の「東宮妃殿下のこと残念なことである」という記述は、美智子さんの体調が悪く、皇后さまの還暦のお祝いに出られないということで、特別な意味があるわけではない。
3月22日の「東宮妃は3時半頃宮内庁病院に入院、すぐオペラチオン」とあるから、具合が悪かったのだろう。
しかし、同じ日に入江氏はあんなに一生懸命お世話した美智子妃から「恨まれている」ことを次長の口から聞かされたのである。

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東宮同妃のご活躍2

2013-04-01

「くりかへし考えるが誠に不愉快」

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美智子さんが何を恨んでいるのか、まるきりこちらには見当もつかないが、入江氏にはわかっていたようだが、「くりかへし考えるが誠に不愉快」と書いてあるところをみると、入江氏にとっては理不尽と思えるような部分もあったのではないかと推察する。
仮にそう言われたとしてもそれが本人の耳に入るということは「昔の側近にはあり得ない」と言っていることから、「悪口」に近いことだろうというのがわかる。
何か入江氏がヘマをしたということではなさそうである。

入江氏はよほど悔しかったとみえて、すぐに忘れるということは出来なかったようだ。
翌日また「不愉快に思い出される」と書いている。
しかし、入江氏としてはどうしようもないことだ。
入江氏58才、30年侍従として天皇にお仕えしている。
天皇皇后に最終判断を仰いで仕事を務めているので(書いているので)、美智子さんに「恨まれても」どうしようもないことなのである。

悶々としたらしいが、東宮御所へ行く用事があり、3月29日まず長官に会うと次長から聞いた話とはちょっと違い、「両陛下には入江さんのような人があるからいい、お上もある時”それは入江に書かせればいい”とおっしゃったとの事、皇室がこんな冷たいものとは思わなかった」との事で、(気を取りなおして)東宮同妃両殿下の御前に出る。
「よくお話下さる。お気持ちもよく分かった。少しの錯乱もなく驚くばかりだが、その緻密な所が禍をなしていると思われる。」

書かないほうがいいと言われたことはどうやら反故になったようで、入江氏も今まで通りの仕事で、しかも「うらやましい」と言われたことで、ますますやる気が出たのだろう。気をよくして飲み直している。

ところが、ところがである。
12月27日、長官から「もうちょっと東宮様のことを書いたほうが良くはないか(書けよ)」と注意を受けるのである。
すぐに「皇室外交」に皇太子のことを「繰り入れ」たのだが、12月31日の記述から、さらに東宮から「皇室外交」「(使用する?)写真」にダメ出しがあったことがわかる。

注文通りにしたが、この藤原定家の子孫にとっては、承服できかねる文章になったのだろうか。
しかし、言うとおりにするしかない。
「うつろな気がする」の一言に、入江氏の一気の脱力がよく出ている。

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山田君の諫言

2013-04-01

東宮へ諫言

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心配されたが義宮さまは39年2月津軽華子さんとお見合いされて9月にご結婚、常陸宮となられた。
ご兄弟仲はあまりおよろしくなかったのか、入江日記にはえらいことが書いてある。
山田という人が、2月27日に東宮職から代わりたいと入江氏に相談をもちかけているのだが、それから1ヶ月後、最後だというので、東宮へ諫言したらしい。

・人使いが荒いこと
・つまらない臣下のあらをとりあげないこと
・孝養をおはげみになるべきこと
・常陸宮さまと御仲よく遊ばすべきこと

何か淡々と書いてあるのが、「みんなが周知のことである」感がして、よく言ったと言わんばかりである。
美智子さんが細かい(入江氏は緻密という言葉を使うが)人のようだが、この諫言(つまらない臣下のあらをとりあげる)からみると、夫婦して細かいのかもしれない。
似たもの同士なのかも。

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平民出身以外に気に入らないことがあるか

2013-04-01

昭和40年11月30日。

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右ページ「親王誕生」とあるのは、言わずと知れたわれらが「鯰殿下」である。
昭和40年11月30日。
12月2日になって、妃殿下をお見舞いすることで「いろいろやる」というのは、段取りを決めたのであろう。
昭和天皇は行かない、良子皇后のみということで、入江侍従はそれでも「皇后さまだけでもおいでになることになってよかった」と言っている。
そしてその後の文章だが

「皇后さまが病院にお見舞いになった時、妃殿下が起きてお迎えへになったといふことにつき無理していやしないかといふのでお怒りの由」

これがどうもわからない。
良子皇后が美智子さんを見舞った。
美智子さんは起きて良子皇后を迎えた。
良子皇后は「(もう起きたりして)無理していやしないか」(と本人には言わず)女官か誰かに聞いたのであろう。
それを聞いて美智子さんはお怒りらしい。
何度読みなおしても、↑のような状況としか思えない。
それならなんで美智子さんは「お怒り」なんだろう。
「無理しているのではないか」と言われて「いいえ、大丈夫です。無理してません」と言えばすむことなんだけど?

そして左ページ

「皇后さまは一体どうお考へか、平民出身として以外に自分に何かお気に入らないことがあるか等、おたづね」

これまた強烈な質問である。
わりと有名なの美智子語録の一つだが、もっと早くに(結婚してすぐくらいに)聞いたのかと思ったら、入内して8年もたっている。
親王を2人もあげた自信からか、それとも今まで何事も「完璧」にやってきたとの自負心からか。
「出自以外(これは自分ではどうしようもない)に何が文句があるのか?」と聞いているようなものである。
むろん美智子さんは「出自はどうしようもないが、それ以外のことは直せるので言ってください」という意味だったかもしれない。
しかし、「平民出身以外」と限定することによって、美智子さんは巧まずして「自分の意見」を用意できてしまうようにしてしまった。
お公家さんの「直截に言うのではなくちょっとぼかしてやんわりと」という文化を封じてしまったわけである。
これでは「さぁ、一つ一つ細かく言ってみなさい!」とすごんでいるようなものだ。

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美智子妃のbackground

2013-04-01

昭和34年9月10日の日記

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入江日記とか初代宮内庁長官の田島道治の本を読むと、美智子さんは入内して苦労されたかもしれないが、あの時代にしてはわりに好きにさせてもらっているみたい。
それは「戦争の反省」とか「新しい時代の到来」とか「昭和天皇・香淳皇后の人の良さ」とか「早くに親王をあげた」とかいろいろ理由はあるかもしれないが、しかし、伏魔殿のような皇室だよ?
取り込んでしまえばこっちのものってのがあると思うんだが、右ページは昭和34年9月10日の日記、世紀の婚礼から半年である。
私はこういうふうに読んだ(違うふうに読んだら教えてね)

東宮職が入江侍従に電話で頼んできた。
「美智子妃殿下の今後の御行動についてですが、(宮内庁)長官が皇后さまに明日拝謁するとき、皇后さまからリクリエーションのためのお出ましはなるべく遊ばすようにおっしゃっていただきたいとの(東宮)大夫からの要請です」
だから、私入江は、6時前にお文庫で皇后さまに(根回しのために)拝謁し、(東宮大夫の要請を)申し上げた。たぶん皇后さまはそうやってくださると思う。

その2ヶ月前7月8日の日記には
「西野さんのところへ行き山田と3人で昼食。東宮妃のことにつきいろいろ議論する。一日も早く小林教授(小林隆東大教授。8月127日付で皇太子妃専任産科医になる)をお召になることが先決と主張する。」
とあるので、ご懐妊の話だろう。
まだ親王か内親王かわからないが、皇太子妃が懐妊されたということで、大騒ぎになっているのだろうと思うが、東宮職から皇后に「言わせる」というのがすごい、と思う。
しかし、よく考えてみると、天皇皇后って美智子さんのためにいろいろ「させられてる」
また美智子さんも「平民だと言うこと以外皇后さまは何がご不満なのか?」と(東宮侍従ではなく、天皇皇后付きの)侍従に聞いているのである。
普通に悩んで「私のどこが悪いのかしら?」と思っているなら、まず自分のまわりの味方だと思える人に打ち明けると思うんだけれども、ダイレクトに皇后付きの侍従に聞いたということは、入江侍従が自分の味方だということを知っていた?
でも、皇太子妃より皇后のほうが宮中ではずっと力を持っているのだから、皇后付きの侍従をよほど懐柔しているという自信があるなら、それもありだろうけど。

それから30年もたって、世界はさらに広がっているのに、子供を産むことを優先して禁足令を皇太子妃に課した宮内庁長官がいたよね。
「東宮妃にゆったりとお遊びにお出かけになるよう」野村東宮大夫が美智子皇后に言わせようとするなんて、えっ、そんなことあるの?
(それが出来ればこんな嬉しいことはないけど)

なーんか、美智子さんの立場って、時として皇后なんかより強い感じがするんだよね。
なんでだろうって思って、ハッと気づいたんだけど。

美智子妃は「国民に人気があることを支えにしていた」と浜尾さんは言っていたけど、国民の希望がいくらあったって、ダイレクトに宮中の人は動かせないよ。
美智子妃のバックには「日本政府」がついていたんじゃないかな?
詳しく言えば「経済界」。
日清製粉という会社だけではなくて、経済で日本を強くしていこうと決めた、ある時には首相を「ソニーのセールスマン」と言わしめたほどの、高度成長期にかかる護送船団方式の日本政府と経済界。

なにかそんな感じのする初代宮内庁長官、田島道治の本を読みました。
またヒマがあったらUPします。

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孝宮様

2011/01/20 (Thu)

孝宮さまの御婚約

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昭和24年 11月23日 読売新聞「孝宮さまの御婚約御内約順調に進む 選ばれた東本願寺の大谷光紹氏」
父親の大谷光暢法主も受諾の表明をしたのだが、12月5日、道治は孝宮を大谷家と婚姻させると費用が大きすぎるので「鷹司氏ノ方ヨシトスル」と書いている。
大谷家は良子皇后の妹君智子様が光暢氏に嫁がれて裏方となっておられた。
内気な孝宮様には、こちらの方がよほど気が楽だったろうと思うけれども、「金がない」の一言で話はひっくり返った。
しかし、日本中が貧乏だったのは確かで、入江日記にはそのひと月前、11月10日の日記には「家へ帰って大根に下肥をやる」という記述も見える。
良子様は孝宮を花嫁修行のために百武元侍従長の家で家事見習いをさせた。
「もしわからないことがあったら、なんでも百武に聞きなさい。他人の手を煩わせてはいけません。なんでも自分でするように」
百武家では、朝夕の布団の上げ下ろし、料理、掃除、来客の出迎え、何でもおやりになったそうである。
式はウェディングドレスがご所望らしかったが、それでは新調ということになるので、照宮様の小袿、お嫁入り道具には照宮様が使っていない桐箪笥にかんなをかけてリフォームされ、贈られたそうである。
しかし、昭和25年5月20日の結婚式には昭和天皇・良子皇后・貞明皇太后も参列された。

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平成21年4月8日、天皇皇后両陛下御結婚満50年に際して行われた記者会見で、天皇はこのお姉さんのことを語っている。

皇后は結婚以来,常に私の立場と務めを重んじ,また私生活においては,昭和天皇を始め,私の家族 を大切にしつつ私に寄り添ってきてくれたことをうれしく思っています。不幸にも若くして未亡人となった私の姉の鷹司神宮祭主のことはいつも心に掛け,那 須,軽井沢,浜名湖でよく夏を一緒に過ごしました。姉は自分の気持ちを外に表さない性格でしたが,あるとき,昭和天皇から私どもと大変楽しく過ごしたと聞 いたがどのように過ごしたのかというお話があったことがありました。皇后は兄弟の中で姉だけを持たず,私との結婚で姉ができたことがうれしく,誘ってくれ ていたようなのですが,このときの昭和天皇が大変喜ばれた様子が今でも思い出されます。私ども二人は育った環境も違い,特に私は家庭生活をしてこなかった ので,皇后の立場を十分に思いやることができず,加えて大勢の職員と共にする生活には戸惑うことも多かったと思います。しかし,何事も静かに受け入れ,私 が皇太子として,また天皇として務めを果たしていく上に,大きな支えとなってくれました。

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続・孝宮様

2011/01/20 (Thu)

入江日記の孝宮様の様子

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41年1月29日、夫の平通氏がバーのマダムと死んでいたという事件が起きる。
道治は2月10日、その結婚を決めた者として責任を感じ、葉山へ参上してお詫びを申し上げている。
「11時頃葉山御用邸着。侍従長 長官と打ち合わせの上にて気がすまねば 孝宮様ご降下(原文はこうなっている)決定当時の責任者として驚懼の旨言上す」

入江日記には、孝宮様の様子がちょくちょく書かれる。
皇后のお使いとして行ったのだろう。
一人でだまって片付け物をしておられる姿がよほど心に残ったとみえる。
入江もまた孝宮様の御降嫁先を決めたメンバーの一人だった。
入江日記では「血族結婚をさける他いろいろ」と理由が書かれている。

照宮様が亡くなられ、その5人のお子様のことで良子皇后は忙しかったようだ。
新しいお母様が来てすねてしまった子もいるし、お父様の盛厚氏も体調をくずしていた。
母親がわりをしておられるのか、入江日記に「東久邇の子供の洗濯が大変だから、女嬬を一人雇ってくれ」と言われて入江が「この間雇った婆さんにやらせろ」と答えている。
孝宮様の相続税のこと、鷹司家の跡取りを決めて、孝宮様と養子縁組させること、入江はそれからたびたびお使いに出向くことになる。
東宮妃の記述は出てこない。

一方、道治の方は孝宮のことを葉山へ謝りに行った翌週から、頻繁に美智子妃と神谷美恵子のことが出てくる。
東宮妃の相談相手ということで以前は「神谷美恵子」と言っていたのを「神谷博士」と書くようになる。
美智子妃は親王を二人あげて磐石の地位を作られていると傍目からは見えるのだが、何かモヤモヤがあるらしい。
翌42年の歌会始を欠席するなど、道治はいよいよ東宮妃には相談相手が必要だと思うようになる。

10月18日
小川君来東久邇優子ちゃんの成績について聞く。侍従長、次長に優子ちゃんのこと報告。
11月6日
四条君来、(東久邇)文子さんのご縁談。
11月11日
盛厚さん夫妻に会う。おからだの方は大分いいとのこと。真彦さん、優子さんの成績のこと、文子さんのご縁談のことなど。

と、東久邇さんのお孫さんのことばかり気を使っている入江侍従であるが、
11月13日、本当に唐突に「皇后さまは平民出身以外に何がお気に入らないのか」と出てくるのだ。

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