皇太子妃雅子殿下の十二単

2013-03-25

皇太子妃雅子殿下の十二単

(鳳凰文庫より)
masakosama.jpg
平成5年6月9日、日本国中が待ちに待った、皇太子徳仁親王殿下と小和田雅子さまとの御結婚の儀は午前十時宮中賢所において、明治33年5月10日ときの皇太子(後の大正天皇)御成婚以来の伝統にのっとり、厳かに執り行われました。
(中略)テレビ各局の特別番組は、それぞれに多方面での取材をふんだんに織り混ぜながら、国民の祝意を十分に伝えるものでした。
天皇皇后両陛下にもこの御儀をテレビで御覧であろうと思いながら、

昭和天皇のお歌

皇太子(ひのみこ)の契り祝ひて人々の
     よろこぶさまをテレビにてみる

を思い出しておりました。

雅子殿下のお姿を拝見しましょう。
まずは、白小袖に濃色(こきいろ)の精好(せいごう)織りの長袴(ながばかま)同じく濃色幸菱紋生固地綾(こきいろさいわいびしきのかたじあや)の単(ひとえ)をお召しでした。
五衣(いつつぎぬ)は忍冬唐草(にんどうからくさ)を立涌(たちわき)に配した地文の固地綾で、裏は表と同色です。
五衣の色は、単(ひとえ)から打衣(うちぎぬ)に向かって、薄い青色・青色・白色・山吹色・そして濃い山吹色とする「花橘(はなたちばな)」の重ね色目(いろめ)でした。
(ここでいう「青」とは伝統的な呼称で、現在の言葉ではほぼ「黄緑」にあたります)
この色目は、平安時代末に書かれたと伝えられる『満佐須計装束抄(まさすけしょうぞくしょう)』の「四月うすぎぬにきるいろ」の項にあるものです。
陰暦の4月1日から9月30日までは夏装束をつける習わしでした。
そうです、十二単にも夏物と冬物があるのです。
とはいっても、十二単の季節感は主に色目によって表現していたため、冬は袷(あわせ)で夏は一重(ひとえ)といった単純な違いではありません。
むしろ十二単は夏冬を問わず基本は袷仕立てなのです。
では一重ものを重ねて着ることはなかったのでしょうか。
さきほどの『満佐須計装束抄(まさすけしょうぞくしょう)』*には「五月ひねりがさね*」「六月より単(ひとえ)がさね」とあり、暑い季節には一重(ひとえ)ものを重ねていたことが窺えます。
しかし、時がたつにつれ十二単の活躍の場が少なくなるとともに、このような細かな使い分けはおろか、十二単そのものさえ歴史上から姿を消していってしまうのです。
その十二単が復活するのは、やっと江戸時代初期のこと、二代将軍徳川秀忠の女(むすめ)・和子が後水尾天皇に嫁するときでした。
現在では、十二単の夏物の特色といえば、織糸に生糸(きいと)を使うこと、また打衣(うちぎぬ)には裏をつけないこと、夏の重ね色目を用いるといったことぐらいでしょうか。
蚕が吐き出したままの絹糸すなわち生糸(きいと)は、繊維がセリシンというタンパク質で覆われています。
これを灰汁で煮たりして取り去ることを「練る」というのですが、この練り加工を施さずに生糸のままで織るとさらりとした風合いの絹布になります。
これを「生絹(すずし)」と呼んでいます。
これに対して冬物は練った糸で織る(あるいは織ってから練る)こと、打衣に裏があること、冬の重ね色目を用いること、そして、ときに五衣の縦褄(たてづま)*や裾に綿を入れることといった違いが見られます。

さて、話を戻しましょう。
雅子妃殿下の打衣は、夏物ということで裏なしの単仕立てで、濃色の綾織物です。
この裏なしの打衣は「引倍木(ひえぎ)」とも呼ばれます。
これは、男性の装束の「袙(アコメ)」の裏のないものと同じ名前で、どちらも「裏地を引きへぐ」ところからついた呼び名です。
雅子殿下の表着(うわぎ)は、表は黄色、若松菱文を地文とし紅色の南天をくわえた尾長鳥の丸を上文(うわもん)とした生(き)の二倍織物(ふたえおりもの)で、裏を黄の生平絹(きのへいけん)とした、支子(くちなし)の重ねです。
唐衣は、表が青色亀甲を地文とし、白色で支子(くちなし)の花を六か(穴かんむりに果・瓜の字をあてることもある)の中にあしらって上文とした生(き)の二倍織物(ふたえおりもの)で、表と同じ色で小菱を地文とする生固地綾を裏として「青重ね」としています。
唐衣の上文である支子は、皇太子殿下の御袍の色「黄丹(おうに)」を染める染料のひとつでもあります。
そして「青の唐衣(からぎぬ)」、遠く平安の大宮人(おおみやびと)たちが憧れたあの「青色」をお召しになって、雅子殿下は宮中三殿にあがられたのでした。
さらに、裳(も)は、桐竹鳳凰文を地摺絵(じずりえ)とする穀織(こめおり)です。

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満佐須計装束抄(まさすけしょうぞくしょう)*
平安時代末期の有職抄で、調度品や装束に詳しい者。

ひねりがさね*
袖口や褄、裾などをくけずに捻って仕立てた単を数領重ね、背縫の一部を綴じてまとめたもの。

縦褄(たてづま)*
襟先から裾先までの間。襟下と同じ。

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仙石宗久著「十二単のはなし 現代の皇室の装い」

2013-03-25

資料本「十二単のはなし」 P238

着袴の義04.jpg

全くお恥ずかしいことですが、私はピンクのは道中着みたいなもので、本当の儀式の時は、敬宮殿下もサーヤが着ていたような十二単の簡単版みたいなのを羽織るのだろうと思ってました。
つまり正式なのは赤い十二単の方なのだろうと勝手に思っていました。

しかし!皇太子殿下は史学科の出でいらっしゃるのを忘れていました。
真珠様がおっしゃるように、赤い十二単映像は練習の時のものでしたが、皇太子ご夫妻は「本番はきちんと正式にやりましたよ」と言うことを、ちゃーんと国民に教えてくださっていたのでした。

「十二単のはなし」 P238

「細長」は、平安時代の形式についてははっきりした資料もなく
・・・(中略)・・・
江戸時代の細長を闕てき(けってき:てきは月偏に夜)形式(両脇を縫い綴じず、前後の身頃が離れていること)で仕立てたものではないかとの推察があります(※敬宮殿下お召しの赤い方の御装束)。
この「細長」には「うちき(掛の手偏を衣偏に替えた字)」などとは異なり「衽(おくみ)」がありません。
ですから襟は身頃に直接つけられていて、名前の通りさすがに細長い感じのする装束です。
(中略)
江戸時代に再興された「細長」では、皇女の「深曽木の儀」などの晴れの場にもちいられたので、地質も浮織物などの豪華なものが使われました。
紀宮清子内親王殿下の「着袴の儀」のときのお姿も「細長」をお召しになっているのでした。


本来は「衵」の上にさらに「打衣」を重ねるのが正式だったのですが、平安時代も末ごろには「打衣」を用いることが少なくなっていき、鎌倉時代には省略するのが当たり前になってしまいます。
鎌倉時代の装束の色目について書かれた「式目抄」によると、「衵」は二枚重ねて着るのが本儀である・・・(後略)
天皇・東宮の「衵」の色は緋色で、・・・(中略)・・
衵には柔らかい絹を張らせて仕立てた「ふくさ張り」と、つややかに特殊な糊で固めた「板引き」とがあります。
室町時代の初期には、天皇・東宮の「衵」は「板引」関白以下のものは「ふくさ張り」(糊張りなどの固く張らせる作業をせず、絹本来の柔らかさを出した仕立て方)と決まってます。

童の衵装束

これは、簡単に言うと羽織って着る装束のひとつですが、主に成人用の丈の長い「うちき」に対して丈の非常に短いもので、子供の着丈よりも少し短いくらいの寸法に仕立てます。
これを何枚も重ねて着た姿を「童の衵装束」と言うのです。
江戸時代初期の「後水尾院年中行事」には、皇女は「深曽木」の儀で「衵」を着るとあります。
事実、江戸時代の皇女が深曽木の儀でお召しになる衵を高倉家から調進した記録やその衵の舞などが現在も保存されていて、往時の皇女の衵姿をしのばせます。

鳳凰文庫の表題の本の著者は、衣紋道高倉流第二十五代宗家を補佐する会頭で、平成2年の即位の御大礼に関する一連の儀式(即位礼・大嘗祭・立太子礼)において、天皇陛下・皇太子殿下の「お服上げ」を永満宗家とともに努められた方です。

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以上のことから、敬宮殿下は練習を「細長」でおやりになり、本番は「衵」でおやりになったのだと思います。
「衵」の赤い色は禁色ですから、おそらく濃桃色になさったのかと、さらに、お袖がピンと張っておりますので、「板引」(最高の仕立て方)、本儀どおり2枚重ねてお召しでいらっしゃいます。
玄関へのお出ましだけで、皇女として、本来のしきたりに則り、本番をきちんとおやりになったことがわかりますね^^

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浩宮様の着袴の義

2013-03-25

資料本 昭和天皇・香淳皇后
浩宮様の着袴の儀のお衣装

浩宮様の着袴の義.jpg
六瓜の中に支子の花の浮き上がるような織りの素晴らしさ。
皇太子殿下の着袴の儀のお衣装と六瓜のデザインがお揃い。
黄丹の袍を染める支子の花、わざわざ選んで作ったんでしょうか。

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浩宮様の半尻

お姿比較

ペリドット様へ.jpg
浩宮様の半尻=昭和天皇・香淳皇后両陛下から
悠ちゃんの半尻=明仁・美智子両陛下から

パッと見にはよく似てますが、ぜんぜんモノが違うというのがおわかりでしょうか?
豪華な織物として浮織とか二重織(or 二倍織:ふたえおり)とかあるそうですが、浩宮様のは二倍織(浮織の応用)のさらに応用編という感じですね。
光の加減によっては、亀甲の地紋が黄金色に浮かび上がります。
浮織は綾織の一種なんですが、上文を浮き出させる「絵緯」の色糸が1本ではないような気がします。
どうやって織るんだろう?

一番右の白い半尻(袖口だけですが)は高松宮(光宮)の半尻です。
明治38年、お誕生から50日目の宮中三殿御初参りに調進された童形服(この間本物を見てきました)。
半尻は狩衣をもっと楽にしたもので、大人でも着たそうです。
狩衣ですから、ご存知かと思いますが、袖口が絞れるようになってます。
高松宮様のものを見るとよくわかりますが、その括り糸は紅白左右依2筋、5段の毛抜きに通します。
その糸の間に紅白の丸い飾り(=糸花というそうですが)を施す、これを「置括(おきくくり)」というそうです。

悠ちゃんのものは糸が飾りとしてつけてあるだけのがわかるでしょうか?

敗戦から20年、そこからさらに46年、美智子さんが悠ちゃんのために、浩宮様と同じようなものを贈ってやりたいと思われたのかもしれませんが、どうなん ですかね、見てくれだけはよく似てますが、まぁ、今の時代、どこまで技術を要求するか、要求してもできない場合もありますから、難しいところですが、並べ てみると真似させたがゆえに、色の浅さ、大雑把な作りが目立ちます。

浩宮さまの着袴の儀の装束には、おそらく香淳皇后様の意見が入っていると思うんです。
見れば見るほど緻密な仕事の素晴らしさとともに、浩宮様のおじじ様おばば様の心意気のようなものを感じますねぇ。

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着袴の儀及び深曽木の儀の進行状況

2013-03-25

☆着袴の儀 子供が初めて袴を着ける儀式

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☆京都高倉家の場合

・天明8年(1788)11月19日   
前もって式の期日占ったところ、この日が吉日、時刻は卯の刻と辰の刻が良いと出たので、辰の刻(御膳7時から9時の間)に行う
・寝殿の四方には「御簾」を掛け、南北と西の御簾は垂らし、東側の御簾だけ間口いっぱいにすべてを巻きあげておいて、式場が東向きに設営されていることを示す。
・西側の御簾の南端の1つだけを巻き上げ、ここを式場への出入り口をする。
・式場の中は中央西よりのところに子供の座として「円座(わろうだ)」を置き、北側のところに袴を結ぶ役である「腰結人」の座として南向きに畳を置く。

☆登場人物
・5歳の子本人
・「腰結人」・・・「袴」を履かせる役、子供の父親
 (この時は父親が早くに亡くなったので祖父が代行)
・「前装束人」・・・腰結人を手伝って衣紋の奉仕をする(左衛門大尉兼越前守・従五位下)
・当屋敷の家司

※・・・細々とした諸事をとりしきる(朝廷では右衛門少尉兼近江之介・正七位相当)
※親王家や摂関家、大臣家などの家の事務を執った職員

・近江之介の補佐役2名・・・近江之介より軽輩の監物・図書大允

☆式次第

①辰の刻、近江之介が「広蓋」に、この日の儀式で子供の着る「童直衣・濃色の単・濃色の下袴・横目扇」を入れて、西側の簾を巻きあげてある入り口から式場に入り、子供の円座の左横(東側)に置いてすぐに退場。
近江之介は、風折烏帽子を着け、指貫の袴に狩衣。

②近江之介は「主役の子供」を導いて再び式場に入り、こどもを円座で南向きに座らせると、また退場。

③「腰結人」入場、北側にある「腰結人の座」へ進み、南面して座る。
腰結人は、立烏帽子に指貫の袴、単、直衣姿。

④近江之介「柳筥」

(※)に髪をくしけずるための「ゆする(サンズイに甘:コメのとぎ汁)の入った小さな「ゆする坏」(※)をのせて入場、子供の座の右側に置く。
※「柳筥」・・・柳の木を三面体で細長く削り、生糸や紙元結で綴じ合わせて組み立てた箱
※「ゆする坏」・・・銀製の容器で洗髪用の米のとぎ水(ゆする)を入れた

⑤監物と図書大允が「櫛」一つ、「簪」二つのはいった「乱筥」と青石を二つ載せた「碁盤」とを式場に運びこむ。

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汗衫 (かざみ)

2013-03-25

「高倉文化研究所」主宰の著作
「汗衫」は上着である

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ここには、古典に詳しい方、作歌に長けた方、たくさんいらっしゃいます。
古の装束について、ご存知の方もいらっしゃると思います。
衣紋道史料の保存収集の「高倉文化研究所」主宰の著作から、「汗衫」の説明文を引用します。

「汗衫」は上着である「袍」の背の部分がたいへん長く、清少納言が「枕草子」の中で「尻長と言へかし」と言っているほどです。
「汗衫」の装束の構成は、濃色の「長袴」に白浮織物の「表袴」を着け、「単」を着してその上に子供用の「衵」を何枚か重ね、さらに「打衣」を重ねた一番上に「汗衫の袍」をまとう、というものです。
腰は男物のような「石帯」でとめることも、「当腰」でとめることもありました。
さらに、袍の形もさることながら、長袴の上に短い袴を重ねてはくのも、ほかの装束には見られない特徴のひとつです。

敬宮殿下の白菊の丸の細長とは、襟の形が違うことがお分かりかと思います。
衽(おくみ)がないので、羽織る形なのは「細長」と同じだけれども、後ろは長い袍を引いた形。
あと、違いで言うと「汗衫」というのは厳密に言えば、装束の一つで、表着や袴などトータルなものの名称であること。

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男女の区別無し

2013-03-25

深曽木

深曽木.jpg

この「深曽木」も髪の長さで行うものだったので、儀式の年齢などは一定しなかったのですが、これも室町のころに、男は5歳、女の子は4歳でするようになり、日取りも11月や12月中の吉日が選ばれました。
江戸時代の初期には、基盤の上で左右の足に青石を踏んで立つという形が、「深曽木」の儀の形式として定着します。
またこのころ、儀式に臨む子供の装束として、皇子は「半尻」に「前張袴」で、皇女は「衵」姿でした。

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宮妃の十二単

2013-03-25

憲仁親王妃久子様の即位礼正殿の儀 平成二年十一月十二日

即位礼正殿の儀平成二年11月12日.jpeg


皇后の十二単 その1

2013/01/07 (Mon)

先例となるべく作られた御装束

先例となるべく作られた御装束i.jpg

皇后の十二単 その2

2013/01/06 (Sun)

白樺の丸

桐竹鳳凰なんかどうだっていいのよ.jpeg



御長袴(おんながばかま) 紅色*精好(せいごう)、裏も表と同じ**「引き返し」仕立。

 *精好(せいごう) 袴の生地の一つ、経て(たて・縦糸)よりも緯(ぬき・横糸)を太くして横に強い張りをもたせた
**「引き返し」仕立 表の生地を丈の二倍にとっておいて、裾までの寸法以外の生地を裾からその内側にまわして裏とする。

御単(おんひとえ) 紅色。
文様は幸菱(さいわいびし)、織りは地文をくっきりと見せるために地の糸を固く締めて織る「固地綾」

御五衣(おんいつつぎぬ)
重ね色目「紅の匂(くれないのにおい)」
五衣の表地の色は五枚とも紅色ですが、それぞれの裏の平絹(へいけん)の紅色が重なるに従って濃くなってゆくことから、この単色によるグラデーションを「匂(におい)」と表現する。
文様は五枚とも「松立涌(まつたちわき)」の地文。材質は、表地が固地綾、裏地が平絹。

御打衣(おんうちぎぬ)
深い紫色。
地文のない綾織物、裏は表の色と同じ紫の平絹。

御表衣(おんうわぎ)
白の縦糸に薄い萌黄(もえぎ)色の横糸で三重襷(みえだすき)の文様を浮織物として、さらにやや濃いめの萌黄色の横糸で「白樺の丸」を上文(うわもん)とした二倍織物(ふたえおりもの)。
裏は上文と同じ萌黄色の平絹。
白樺の丸は、皇后陛下のお印「白樺」に由来する。

御唐衣(おんからぎぬ)
白、表地は小葵を浮地文に紫色の向鶴(むかいづる)の丸を上文とした二倍織物(ふたえおりもの)。
紫色の小菱文の固地綾(かたじあや)を裏とする「菊の重ね」。
上文の向鶴は根付きの小松を中心に左右二羽の鶴が向かい合ったもの、くちばしには松の小枝をくわえている松喰鶴(まつくいづる)の図案

御裳(おんも)
大腰と引腰は白色か(穴かんむりに果)に霰文(あられ)の浮織物、白色小菱文固地綾を裏とする。
引腰には五色の糸で「山道」という飾りをつけ、それに松の木を刺繍している。
また大腰にも五色の糸の指し飾り。
小腰は表裏とも唐衣(からぎぬ)と共裂(ともぎれ)で、これにも五色の糸の上指し、八幅(やはば)の裂(きれ)は白色で三重襷文固地綾、地摺り(じずり)によって松と鶴の文様が描かれている。

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左から二つ目

御単 紅色で幸菱文の固地綾

御五衣 紅色で松立涌地文の固地綾、御裏は紅色の平絹、比翼の仕立て

御表着 白色で杏葉(きょうよう)に鶴の浮文の浮織物、裏は蘇芳色の平絹

御小袿(おんこうちき・高倉流ではころもへんに卦) 青色で三重襷の地文に白鶴の丸を上文とする二倍織物、御中倍(おんなかべ)は薄色(薄紫のこと)、御裏は紫色の平絹

御長袴 紅色の精好織り 

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右から二つ目

帛の十二単(はくのじゅうにひとえ)

現在の帛の十二単は、江戸時代に女帝が神事にお召しになったもので、皇后陛下の儀式服としては、対象の御大礼から制定になった。

お髪は大垂髪(おおすべらかし)、櫛は銀の沃懸地蒔絵無文(いかけじまきえむもん)、、釵子(さいし)簪(かんざし)ともに銀、檜扇は白木で三十九枚、これに白糸を蜷結(になむすび)とした飾紐がつき、要は銀の蝶と鳥の形。

単・五衣・打衣・表着・唐衣はすべて白の平絹、裏のあるものはその裏も表と同じ白の平絹。また裳については、大腰・引腰・小腰んどはやはり表裏ともに白平絹で白糸の上指しがあり、八幅の裂(きれ)だけが生糸(きいと)を使った白の生(きの)平絹。長袴だけは、生地は表裏とも平絹で他の同じだが、ほんのりとした薄紅色。 

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小袖の上に「長袴」・「単」・「小袿」、「檜扇」・「釵子」のお姿。

御小袿 白色、「白樺」を上文に配した二倍織物(ふたえおりもの)。
お印にちなんだ「白樺の御小袿」

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皇后の十二単 その3

2013/01/06

桐竹鳳凰

お古なんかいらないわ.jpeg

美智子妃がお召しになられたご婚礼の装束は、華子妃のご装束と全く同じ。
むしろお身丈が華子妃の方に合っていたのか、文様が打ち合わせのところでピタリと合っている。

同じ物を二具作ったということもありえないではないけれども、やっぱり華子さまは美智子さまのお古を着られたのでしょう。

明仁・美智子両殿下は4月、常陸宮同妃両殿下のご婚礼は9月なので、常陸宮さまのご装束は夏物だが、華子妃は袷、まぁ、衣紋道研究家の仙石宗久氏によると、十二単は基本は袷であるらしいので、別に夏物でなければいけないと言うことはないのだが。

で、今では華子妃のご婚礼の儀服として所蔵されているらしい。
一説によると、香淳皇后がご成婚の朝、久邇家の玄関に姿を現された時お召しになっておられたもの
(つまり、ご実家で調製されたもの)を使われたという話。
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美智子皇后(当時皇太子妃)の写真の説明文

皇太子妃であられた皇后陛下の十二単は、下から白小袖、濃蘇芳(こきすおう)の長袴に単衣(ひとえ)。
五衣(いつつぎぬ)は「萌葱匂(もえぎにおい)」。
表着(うはぎ・表衣)は紅地二重織、地文は繁菱で、上文は六か(=穴かんむりに果)八葉菊(ろっかにはちようぎく)。
唐衣(からぎぬ)は紫地の二重織、地文は亀甲、上文は向鶴丸文(むかいつるまるもん)。
白地三重襷文(みえたすきもん)の裳をつけて、檜扇を持たれた。

華子妃の写真の説明文

妃殿下の十二単は、紅色の表着、地文は菱、上文は六か(=穴かんむりに果)八葉菊。
唐衣は紫、地文は亀甲、上文は向鶴丸文(むかいつるまるもん)。
白地に桐竹鳳凰の描き絵をほどこした裳を着け、手には檜扇を持たれた様子が展示次第にうかがわれる。

えっ、桐竹鳳凰の描き絵?
「桐竹鳳凰」と言えば、
桐竹鳳凰.jpg

天皇の袍(ほう)に織り表される文様。泰平の世を治めた君主を褒め、天上から鳳凰(ほうおう)が舞い降りてくるとされる。その鳳凰は地上の梧桐(あおぎり)に栖(す)み、六十年に一度稔る竹の実を食して現世に栖まうとする。しかし、乱世と共にたちまち天上へ還るとされ、善君の世の証しとして天皇の袍に織り表されてきた。大儀には黄櫨染(こうろぜん)の袍を、小儀や行幸(ぎょうこう)には麹塵染(きくじんぞめ)の桐竹鳳凰文の袍が用いられた。後代、麒麟(きりん)を加えて桐竹鳳凰麒麟文とし、筥形の構図に纏められる。

なのですが?

もっとも、雅子妃の御裳は「(夏用で)穀織(こめおり)に桐竹鳳凰の描き絵」です。

美智子妃は「白地三重襷文(みえたすきもん)」としか説明書きがないのですが、華子妃に桐竹鳳凰の裳をつけさせた方はいったいどなたなのでしょう?

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即位の礼の「桐竹鳳凰」

2013/01/06 (Sun)

裳は全員 桐竹鳳凰

即位の礼は「桐竹鳳凰」の大安売り.jpeg

皇后さま以外は、色は2色、若いのと年寄りのと。
文様も平等、若いのも年寄りのもみな同じ。
裳は全員桐竹鳳凰。
     ↑ これは説明書きの誤植みたい。

本文には「桐竹尾長鳥」とあります。

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明正女帝と後桜町女帝

2013/01/19 (Sat)

明正女帝と後桜町女帝(吹き上げ御所の雑草さま wrote)

明正女帝と後桜町女帝.jpg

即位礼・勅使発遣の儀、天皇陛下は御引直衣(おひきのうし)。
吹上御所の雑草さまが過去の女帝の即位礼のお姿を書いてくださったので、記事にしますね。

明正女帝と後桜町女帝


興子内親王 = 明正女帝の即位(御年8歳)

860年ぶりの女帝が着した礼服は、宝冠、白の大袖、小袖という装束で、8歳という御年のため新調せざるをえなかった。

公卿の二条康道日記より
「袞竜ヲメスベキ御事ナレドモ、女帝ニマシマセバ、古代ノタメシニ任セ、白キ御衣ナリトゾ聞ヘシ。」
これは、平安時代の弘仁11年頃より以降、即位儀には男帝は袞衣で、女帝は白(帛)衣とする故実によったためである。
今日もであるが、当時の人も、天皇が即位する時、男帝と女帝とでは装束が相違するということを、多くの人は知らなかったようである。

しかし面白い事に、当時、上方浮世絵師の大成者と言われる西川祐信が描いた「百人女郎品定」の中に見られる女帝の装束は、男帝の装束なのである。
その挿絵からは分かりにくいが、女帝が着装している赤の大袖には、その両袖に竜の縫い取りの他に大袖全体に日・月などの刺繍が総計で12も施されている。これが、袞衣である。
西川祐信は上方の人間であるゆえ、江戸よりは天皇家への関心があったと思われるが、男帝の装束としたその本心は、いまだ論争されている。

智子内親王 = 後桜町女帝の即位(御年24歳)

8歳の幼女と24歳の成人とでは、その即位儀は異なることが少なくなかった。
後桜町は伝統に則り、当時内蔵寮が保管していた「古物」の女帝装束が運び出されており、これは「礼服御覧」と呼ばれる儀式で、新帝即位にあたり、事前の男帝と女帝の礼服を内覧することである。
智子内親王による女帝即位であるから、男帝の装束は返され、残された女帝の礼服を着装する予定であった。この予定された女帝の礼服は、古代最後の女帝である孝謙=称徳女帝が即位儀に使用されたものと考えられている。
しかし、称徳女帝の即位以来、使用することのなかった礼服は、そのままでは着用する事ができず、結局は白絹の大袖、小袖その他を新調している。それらは総じて白を基調としているが、なぜか、「沓」だけは男帝と同じ赤であった。

そして後桜町女帝は、明正女帝が挙行しなかった重要な儀礼すなわち大嘗祭を行っている。
大嘗祭については、1500年に即位した後柏原天皇より以降、後奈良天皇、正親町天皇、後陽成天皇、後水尾天皇、明正女帝、後光明天皇、後西天皇、霊元天皇は挙行できなかった。何故ならば費用が莫大で、天皇家の権威だけでは、その費用を調達できなかったからである。
さらに、後桜町女帝は、明正女帝の御代にあった院政がしかれることは無く、天皇親政の統治形態となっている。

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